「今年の富士総合火力演習、自衛隊のあのライブ配信、見た?」見てねえよ、小一時間前に合体してまだそのまどろみから解け切らないうちに、愛しい彼女からこんな質問をされて俺は戸惑った。で、ついうっかり「そういや昔無茶苦茶何も出来ない奴が居てさあ、運動も健常児とは言えないくらい出来なくて、頭もめっちゃ悪くて、そいつは先生やみんなから『よし!お前は自衛隊入れ!陸上自衛隊の一兵卒ならお前でもやってける』って言われてたな、だからみんなでそいつのこと自衛隊員って呼んでたなあ…今どうしてっかな」と笑いながら言ってしまった。すると彼女は目の色を変えて鋭く言い放った。
「…おい、自衛隊を、馬鹿にするな…」
その言葉は別に激高して言った言葉じゃないし彼女も怒鳴ったわけじゃないんだけどあまりにも低く言い放つもんだから俺もはっとして彼女の方を見た。まだ裸の彼女は小一時間前のかわいい様子とは打って変わって、戦前の陸軍大佐でも乗り移ったかのような座った眼でこっちを見据えていた。おいおい…まさかこういう女が国防とかそういう事に信仰に近い何かを持っている人間だとはさすがの俺も見切れなかった。面倒くさいと思う一方いやしかしそこまでの自衛隊好きならばもっと前から開示してくれてもよかったんじゃないかとも思った。なんにせよ俺は不意を食らって一瞬固まっていた。いやほんと誰だよ女には賢者モードが無いとか言ったやつ、めいっぱいイッた後の女はその相手の男に常時すべてを委ねる気持ちが起こっていつでも愛情を持ってくれるとかいう都市伝説流した奴誰だよ。そして何故俺はそんな馬鹿げた都市伝説をこの歳になるまで、サンタを信じる幼稚園児の如く信じていたんだろう…しかしいつまでもこうして赤の他人や自分の不出来さを責めても仕方が無い。もしや性交運動で腹が減っていて機嫌でも悪いのかと感じ、我が母の伝統を受け継ぐべくこの一人暮らしの男の部屋に常備されたルマンドを差し出してみたら彼女は乳房を揺らしながらそれをひょいひょいと口に運んでは無言で食っている。…やはり腹が減っているらしい…ルマンド神の助け舟もあってこの話題は一時休戦と相成った。母ちゃんサンキュー、お袋の伝統に助けられた俺はその間に料理を作って彼女に持って行ってやった。いやあ我ながらよく出来た男だよ、料理というか調理の要領はよく知っているし好きだから苦にはならない。こうして食べてくれる人が居るのも嬉しいものだ…この油断がまずかったらしい。俺はついまた口が滑ってこう言ってしまった。「いやでも、ほんとに、何もできない奴は陸上自衛隊行けみたいなのってあったんだって」俺は彼女がいつものように…セックス前の愛嬌のある状態のように相槌を打ってくれるか俺の故郷の地域文化に何らかの理解、もとい和解を示してくれるものと期待してしまっていたとしか言いようがない。彼女はにわかに、無我夢中で食べていたパエリアのスプーンを置き、俺を見据えて再び低く言った。「…貴君には侵略や侵害といった概念がまるで理解出来ていないらしいな」
「でもまあ仕方あるまい」旧帝国の陸軍大佐の亡霊を宿したままといった様相の彼女は言った。「侵害されるという恐怖を知らないのだからな」いやあの、俺とセックスして、あんなにかわいく甘えて、しかも(そりゃ俺が自分から作ったわけだけど!)飯まで作らせといてそれをかっ食らった挙句にいかめしい態度を取るの、もうやめてくれない…?陸軍大佐のオーラを纏った彼女は俺の淹れた茶を一口飲んでからまた続けた。「あの演習では決められたことをやるってだけだから本当の攻防戦には成っていないしそんな演習は無意味だ、私が見たいのはゲリラ戦だよ、けどゲリラ戦に戦車やら実弾やらを使うわけにはいかないからな、本物の火力を見せつけるという意味でならああいった演習は素晴らしい、けど本当の有事というのはいつもゲリラだ、待った無しのアドリブの世界だよ」何を言っているんだこの女は。俺はこんな奴を可愛がっていたのか、俺はこんな奴に射精したんだろうか?心なしか顔も男っぽく見えてきた。何なんだお前、誰なんだ…いや駄目だ!自分の賢者モードの罠にはまって彼女を異物を見るような目で見るのも愛が無さすぎる!いいじゃないか自衛隊、ええじゃないかええじゃないか…俺は自分に言い聞かせるようにして彼女の話に頷いた。で、ついまたこう言ってしまった。「演習は大事だよね、けど有事ってもう無いんじゃないの?税金の無駄遣いじゃないか?」
旧帝国の陸軍大佐はきっと向き直って目を見開いた。本当に目が大きいなと俺はぼんやり考えていた…けどなんかおっさんっぽいような気もする。単に顔の濃いおっさんの血がまざっているだけという感じがする、セックスする前はこの目の大きさもあんなに可愛く見えたのに…。「貴君は!」陸軍大佐はこぶしをにぎりしめて言った。「何も知らないのだな、人間が肉体存在である以上侵害されたり侵略されたりする事に纏わる諍いは不回避であるということを…人生で何も体感してこなかったのだな、この件に関してはどんな出来の一兵卒だろうと素晴らしい力を秘めていると私は言いたい!その一歩兵が数千数万と集まるということの重要性、その力を、まったく理解しようともしないというのは…本当に嘆かわしいことだ」母ちゃん助けて。この陸軍大佐に対してどう接すればよいのかわからない。ああ、聖母マリアに寄り縋るとか執り成しを頼むってのはこんな感じなのだろうかと無意識的に思いながら俺は偉大なるルマンド神に手を伸ばし、その、チョコらしきものでコーティングされた枯れ葉めいた焼き菓子を再び彼女に差し出した。頼む、通じてくれ!だが彼女は顔をしかめて冷たく言い放った。「もう腹いっぱいだからいらん!」
何なんだよ侵害侵略されるって、それがゲリラかつアドリブ展開される日常を彼女は送って来たとでもいうのか?ていうかどこの人間なんだよ、この国の普通の女性だろ…だが不思議とそれほど嫌な感じもしなかったので俺は彼女を駅まで送り届けてから、いつものように次に会う日を決めた。まあいいかこんな女性も!何なら、富士総合火力演習とやらが公開実地される時には一緒に見に行ってもいい、精力が自然回復してきたせいかなんだかやはり彼女の顔形も改めて可愛く思えてきた俺は、実に朗らかな気持ちで近所のスーパーに寄り、ルマンド神や明日からの食材を補充、調達して部屋に帰宅し…かけて驚いた、自分の部屋のドアの前に見知らぬ誰かのチャリが横付けされているではないか。
え?何なんだ…自転車はスポーツ用の物で一目でデカい男が乗り回しているとわかる。第一にサドルの位置が高い。俺よりも足が長いことが覗える。全体は青色をしている、ああこの色、美術の時間によく使ったっけー、と無意識的に思い出がよぎったが今はそれどころではない。自転車はどかせばいいが何故こんなことをされたのかがわからない。というかこの自転車は誰の所有物だ?隣人?どっちの?自転車は贔屓目に見ても意図的にこの部屋のドアの真ん前に置かれている。その時の俺の気持ちはまだ不安が半分と、この所有者に知らせなければという気持ちが半分、もしかしてさっきの彼女とのセックスの喘ぎ声とかが聞こえてて暗に孤独な男の神経を逆なでしてしまったのかという贖罪の気持ちが20パーセント、要するに120パーセント、このゲリラかつアドリブ展開について行けていなかった。先に謝るべきか、しかし目の前の状況は不快である…仕方がないので俺は両隣のドアチャイムをそれぞれに押して話を聞こうとした、が、誰も出てこなかった。出かけているらしい。釈然としない気持ちのままスポーツ用チャリをどけて部屋の中に入ってその日を過ごした。
困ったのはどうも左隣の人間がこのチャリの持ち主で、俺の留守の間、俺の部屋の前のスペースを占領し続けたことだった。奴と俺とはちょうど入れ替わりに仕事に行き、入れ替わりに寝ているのでセックスの声云々で嫌がらせを受けているわけではないようでそのことに関してはほっとしたが…彼は俺が彼の自転車に気付いていることを知らないらしかった。俺は度々左隣の隣人に申し開きをすべく(させるべく?)ドアチャイムを鳴らした、しかし隣人は出ぬまま、たまにそのいかつい自転車は居なくなってはまた横付けされるという日々が続いた。このままでは埒があかないので自転車の一件について丁寧に書いた直筆の手紙をかの隣人宅のドアへ押し込んでおいた。一通、二通…それでも応答は無く、依然として、まるでそれが当たり前であるかのように俺の玄関前を駐輪スペースと定めている様子だった。それどころかだんだんと、飲みかけのペットボトルやら汗臭いタオルやら喰いかけの菓子やらが俺の部屋のドア付近に散乱するようになった。奴が何を考えているのかはわからないがコンドームまでもが散らばっていることもあった。仕事から疲れて帰宅した挙句に自宅ドア付近に散らばる知らない奴がばら撒いたポテトチップや使用済みティッシュを拾い集める日々…この苦行がいつしか無害な凡人(俺)の心に地獄の業火を起こさせた。具体的に言うと俺の感情は、はじめの戸惑いを超えて徐々に怒りに転じていった。別に直接暴力を振るわれたわけでもなければ騒音に耐えかねているわけでもない。けれども件の青いチャリを目にするとかっと憤怒が沸き起こった。無視されているという怒りなのか、貶されているという怒りなのか、逃げ回られていることへのやり場のない感情なのか…おいいい加減にしろよ。いい加減にしろよ!なんで他人の領土を侵害するっていうタブー概念を理解しないんだ!俺は激高していた。管理人を連れてかの男が居る時間帯を狙って、もう幾度目になるのかすら数えきれないチャイムを鳴らすと、奇跡のように隣人は姿を現した。そいつはひょろひょろと青白い、背の高いやせぎすな男だった。俺はここ最近の怒りが頂点に達していきなり胸倉を掴んだ「おい、なんでこっちの手紙を無視した?なんで人んちの前に物を置くんだ?人を見下すのもいい加減にしろよ!!」
この物理的、肉体的脅しが効いたと見え、隣人は俺の前にうなだれると、そのやたらと高い背をくねりと折り曲げて素直に礼の姿勢をとると言葉少なく謝って来た。管理人の手前もあってかかなり従順に自転車を自室へ収納し、ゴミをいそいそと片付けた。はじめからそれが出来るならそうしとけよ!と心のうちに突っ込んだが、何にせよこちらの暴力寸前の脅しに怯えきっている風だった。後日管理人から聞いた話ではどうやら、そいつは俺の部屋を、女の住んでいる部屋だと勘違いしていたらしい…確かに俺は洗濯も外には干さずに浴室乾燥で済ませている、調理もしているので換気扇越しに料理の匂いもしていたのかもしれない、そしてたまに来る彼女の声だけが高く聞き取れるので、てっきり女の一人暮らしと思ってたかを括っていたらしい。手紙にも部屋番号しか書かなかったので…この我ながら整った筆跡が仇となってますます女性住人の雰囲気が強まっていたのだ。しかし女というだけでそこまで人を無視することが出来るもんなのか?コンドームを悦に浸ってばら撒けるもんなのか?なあ、ルマンド神よ、俺は母ちゃんと親一人子一人の生活が長かったもんで母親ってのは父親も兼ねることが出来るくらい強靭なイメージしかないんだが、世間一般から見ると女性っていうのはか弱くて、一人前の人間には見えないもんなのか?それにしたって…仮にそうであったにせよ、人の居住空間に侵害、侵略してきて図々しくのさばるとは何事か、そんなことが普通に起こりうるのか…あるいは女の人生にはそんなことが普通に起こり得るのか?
胸倉鷲掴みの効力が持続しているのかわからんが、左の隣人はすっかり大人しくなった。少なくとも俺を一つの人格存在であると認識したらしかった。何だかんだでひと月ほど経った頃、彼女がふたたび俺の部屋に来た。俺が事の顛末を全て話すと彼女はにやりとほくそ笑んで言った。「貴君もようやく理解したらしいな」そしてこう続けた。「侵害、侵略は唐突に起こるし全部ゲリラ戦だ、貴君は一歩兵として実によく戦った」俺は胸倉を掴むのはやりすぎたかとちょっと後悔すらし始めていたのだが、彼女にそういった全ての行為を漠然と認めてもらえてどこか嬉しいような安心したような気持になった。自分の苦しみが無駄ではなかったと旧帝国の陸軍大佐にお褒めの言葉を頂戴している気持ちになってぼうっとしていた。それから照れ隠しの意味もあって狭いキッチンへ赴き、茶を淹れ始めた。
彼女は茶を淹れる俺をじっと見つめて続けた。「暴力はね、物理的に存在している以上最終手段であり、時に…最善の手段ですらあるんだよ、ここに住んでいるのがこの私だったのならば事態はもっと泥沼だったかもしれない、この件のようにドアの前に自転車やらゴミやらを置かれるという事の嫌悪感と、性的嫌がらせを受けたときの嫌悪感はかなり似ている、コンドームを撒かれた時貴君はかなり嫌悪感を覚えたはずだ、この種の嫌悪感には本当は男も女も無いんだよ、例えるならこの侵害がエスカレートして、自分の部屋を滅茶苦茶にされた挙句に真っ赤なペンキをぶちまけられたりガソリン撒かれて燃やされたりするというのがレイプ被害に遭うということなんだ…もしそういう事を、自分の維持している空間にされたら貴君はどう思う?怒りというよりも明白な殺意を覚えるだろう、私は、暴力というものを忌避しすぎるのは命を考える上ではよくないと思っている、抑え続けることよりも、誰もが殺意の種を持っているということを明示する機会を設けるほうが、お互いを効率的に尊重し合う事が出来る気がしているんだ、現にもう左隣の人から侵害されていないんだろ?殴ったらアウトってのはわかっているが、時に脅しは必要だ、互いの尊厳のために必要なんだよ、暴力を、強いものが弱いものをいじめるという構図に収めてしまうのは本当に危険な思想だと考えている、それは去勢なんだ、特に男同士の暴力というのは一種の儀式ですらある、ある意味、弱いということや力の誇示の回避というのはそれだけで…一方だけをのさばらせるのを許してしまうから悪なんだ、強さを誇示しなければならない時は在る」
俺は息を飲んで聞き入っていた。危うく、ティーポットにお湯を注ぎすぎて薄まった緑茶の湖が床に出来てしまうところだった。彼女はそんな俺を見てちょっと笑ってまた言った。「個人も国も同じだよ、暴力、武力は人間が肉体存在である以上必要なんだ、このことを受け入れたほうがいいと私は考える、男だから可能なことというのは実際にあるんだよ、だから国防のためにも自衛隊は必要で、富士総合火力演習は大事なんだ」…うんうん、え?それ?その事を言いたかったの?なんか途中すごい深い話を聞いたような気がするんだけど結局その話に行きつくわけ?俺は何だか肩透かしを食らったような気持ちで茶を彼女に持って行き、いつものようにルマンドを差し出し、二人で食べた。