短編【船幽霊(ふなゆうれい)】江戸時代イメージ小説

江戸幕府からは遠く離れた閑散とした浜辺…二人の漁師が船のたもとで話をしている。木造の船と褌に薄手羽織だけを纏った姿の男たちであった。

「船幽霊なんて生易しいもんじゃない、そいつは海から出てきて人を襲ったり女と寝たりするんだと」「ヘエ怖え怖え、でどんな化け物なんだ?正体は魚だな?魚なんざあ怖くも何んともねえよ幾代漁師をやってると思ってんだ、魚は海神様をお祀りしてるから大丈夫だろ、な?…ええ?漁師の化け物?んー死んだ奴はいる船幽霊は出るには出るが、そいつが陸まで上がってきて寝起きするのは聞いたことねえなあ、陸に出る船幽霊か、実際この目で見ない限りは信じられねえ話だな、あ、あいつが来やがった…また船代をゆすりに来よったか…お頭、ガツンと言ってやってください、俺ら漁師を舐めてっと痛い目見るってあの玉無しに言ってやってください!」

漁師たちに船貸しと言われた男…彼だけは都の町人風に髷を結い上等な着物を着こんで寒さをしのいでいた。これが怪談話をしていた半裸の漁師の集団に近づいてゆく。浜には打ちさらしのあばら家があり、そこでは魚が干しものにされて渇いた冷たい風に筵ごと揺れていた。船貸しは漁師頭と思しき年のころ五十ばかりの痩せて目の窪んだ男に挨拶した。一同には独特の緊張が走った。

「そう獲れないこともない、だが」先に口を切ったのは漁師頭であった。「船底に小さな穴が開きやがってな、これはあんたらが補修する約束だろ?この修繕代を差し引いた使用料なら払う」船貸しは頷いて丁寧に言った。「左様でございますか、ではこちらで大工を呼んで修繕いたします、使用料ですが、今まで滞りなくお支払いいただいておりますので今回は少し値引かせてもらいます」一同は小さくどよめいた。漁師頭は左右に居る漁師たちを手で制すると静かに言った。「いや有難い、まあ、元々が高すぎるんでさあ…なあ、陸地でぬくぬくしてるあんたにゃあわからんだろうが、こっちゃあ獲った魚をかかぁにも子供にも食わせてやれない時もあるんでさ、旦那、そこんとこをちょっと、もちっとこれからも考えてくださればわしらは文句はねえ、もっとも」漁師頭は先を続けようとしたがそれを船貸しは言葉をかぶせるように発言して牽制した。合わせで着ぶくれてはいるものの船貸しの態度は毅然としていた。「…では、船をつけておいてください、うちの屋号の場所に」それだけ言うと船貸しは砂地を慣れた風に歩き去っていた。漁師たちは苦虫を嚙みつぶしたような顔をして吐き捨てる。「もっとも、あいつが消えてくれりゃあ一番安くつくんだがな」

船貸しはこの漁師の村のはずれ…はずれといってもそれはむしろ海から一番遠く街に一番近いところであったので田舎とはいえ人の気配の多いところ…そこに一軒の二階家屋をこしらえて何不自由なく暮らしていた。この村で二階家を持っているのは船貸しだけであった。もっとも不自由のないのは彼と彼の両親だけであり、ここへやってきた嫁は四方に居る漁師たちの敵意の視線にすっかり参っており、半ば気病のようになって寝たり起きたりして過ごしているのだった。しかし自身も言いつけられれば街へ用立てに行ったり時に取り立てにすら赴いた。嫁として最低限のことはやらなければならなかった。しかし家業の無い時や亭主が留守の間は一人じっと部屋の中に座すか床に伏していた。彼女は誰の前でも気持ちを押し殺しているのだった。

「子はまだか」義理の両親からの催促に耐える日々が続き、枕を並べていても何もしてこないばかりか小さいころに金玉を酷く打ち付けたという風の噂まで耳にした嫁は、意を決して亭主に話した。「あなた…離縁しましょう、あなたのような豊かな方ならば嫁はいくらでも来ます、あたしを出来損ないの石女ということで実家へ送り返してください、貴方なら何でも簡単にお出来になります」しかし嫁に触れない亭主の船貸しは頑なにそれを拒み優しく言うのだった。「私はお前を好いているのだ、離縁などとは言わないでほしい」

この問答は丸三年の間続いた、船貸しの亭主は一度も嫁の肌に触れなかった。

「今日はもう寝よう、気に病むことはない」この穏やかな言葉の何がそこまで嫁を怒らせたのかは最早嫁自身にもわからなった。その地域の常としては丸三年が過ぎても子が無ければ大店の嫁にふさわしくないということで離縁されているはずであるのに、それを切り出すと件の通りのらりくらりとかわされたので堪忍袋の緒が切れ、夜半過ぎにも関わらず彼女はいきなり寝間着を脱いで立ち上がった。亭主の船貸しは初夜にやはり彼女が自ら肌を見せた時以来幾年ぶりかに見る女房の裸体に…まるで見てはいけないものであるかのように目を伏せた。もっとも裸で迫るために脱いだのではなかった。嫁は亭主の態度をものともせずに急いで外着用の小袖を纏い帯を締めると奥方風に結った髷が乱れるのも構わずに嫁は雨戸のひとつを開けて外へ飛び出した。

「潮路!」後ろから亭主の呼ぶ声が虚しく響いていた。

しばらくは繰り返し、形式上の旦那の呼ぶ声が聞こえたが相手も明日の仕事を思ってか、あるいは嫁自体に対する興味が特段無いせいか追ってはこないだろうと嫁の潮路は予測していた。果たして予測はその通りであった。塩を含んだ北風が勢いよく真夜中の村を通り抜けた。今は誰も漁に出ていない…皆家に居るのだ。皆家に居て、それがどんな粗末な小屋であっても寒さも相まって夫婦はぴったりとくっついて眠っているに違いない…この想像が潮路を余計に怒らせ、強い風に吹かれている髷を無意識のうちに崩れないように押さえる自らの手をはたいて胸中の思いを小さく口にした。「髷なんてこの村であたしとあの玉無ししか結ってないじゃない、ばかばかしい!ばかばかしい!綺麗に繕ってたって何の意味もないじゃないか!」

さりとて余所者である潮路に行く当てもなかった。ツテのツテで大店のおかみさんになれるといううまい話に満面の笑みで頷いたのは自分であるのを潮路は自覚していた。二階建ての一軒家に住めるよと話した自らの父の朗らかな笑顔を裏切りたくもなかった…漁師の村でただ一軒、肉体的な実務ではなく卓上の仕事をしている豊かな船貸し一家は当然恨まれても居た。計算というのはある程度の空想である。船大工でもなければ漁師でもない自分たちの生業を「ソロバン漁」と揶揄されているその言葉も出自の貧しい潮路は身に染みて理解していた。漁師たちに挨拶しても誰も潮路の挨拶には返事をしなかった。船貸し本人や義父母の事はいくら目の上のたんこぶではあっても一応仕事の関りがあるので皆頭を下げていたが、その不平不満を…別段直接ぶつけてくるわけではないが、嫁を軽く見ることで憂さをはらしているらしい漁師たちの態度にもまた、潮路は傷ついていた。潮路は泣きながら真夜中の一人ぼっちの村を通り過ぎて海辺へ出た、このまま死のうか?別に誰も悲しみやしない、両親とて許してくれるだろう…しかしいざ裸足で踏み入れた海の水は意外なほど冷たかった。また自分の死骸が村の漁師たちの網にかかって引っ張り上げられ散々嘲弄されることを考えると憤怒の念が湧き出て彼女を踏みとどまらせた。潮路はその名の通り海の潮の流れる只中に引き寄せられて砂浜近くの岩場を覗いた。

空っ風が吹きすさぶ浜辺に突っ立っているのも心もとなく、かといって人家のあるほうへ戻りたくも無い気持ちが潮路を自然と岩場の洞窟へと誘った。浜の洞窟は意外にも乾いていて潮が満ちる頃にもここには海水は入ってこないのだろう…岩の壁面にも何の生物も住んでいないようで地面は砂地であった。ここで死んでもいいや、餓死しようか、でも…死ぬならもっともっと遠くがいい、とりあえず今晩だけここで過ごさせてもらおう…潮路がそうやって岩場の洞窟の奥へ入り込んだときに人影が見えた。なんとその岩場の奥まった場所には先客が居たのだ。潮路は泣きっ面に蜂といった体で急いで岩場から飛び出ようとした。後ろからその人物と思しき声が潮路を呼んだ。「姐さん、姐さんどうした、どこ行くんだ、あんた、おい」

潮路はぎょっとして振り返ると取り繕うように言った。「ヘエすみませんちと…喉が痛くて、潮風に当たりに来ました、すぐ戻りますけえ」確かに潮路の実家のある川向こうの町では喉が痛むときには潮風に当たれという…たぶん内陸の者からしたら仰天するような風習があった。風邪をひきかけているのに冷たい潮風に当たれとは一体全体気でも狂ったのかと、山の人間たちからは思われるだろうが浜の人間たちは皆、具合が悪くなると風に当たりに外へ出た。…潮路は内心その本当の理由が、気持ちが塞がった時に家族とぶつかるのを回避するための言い伝えであることを理解していた…「姐さん喉が痛いのか」意外にも若い声の主は言った。若い男…この村の漁師だろうか?だとしたらあたしの顔を見たらあたしを毛嫌いするに違いない。関わりたくない。「ヘエもう大丈夫です」「ハハハ、さっき来たばかりじゃないか、今火を起こすから姐さんもあったまりなよ」「結構です」漁師には丁寧な断りの文句が伝わらなかったらしい。潮路は若い男に手を取られてもがく羽目になったのでやや大きい声で相手を制した。「嫌だと言ってるんだよわかんないのかい!」

その時に火が付いた。淡い炎に照らされたのは痩せた青年であり、自分よりも年下だという事が察せられた。村で嫌われ者の自分の姿が露になったのを恥じて潮路は目を伏せた。潮路の姿は青年の影に重なって暗くなっていたがそれでも炎は自分を赤く照らしているのを感じて俯いていた。その潮路を青年は見つめているらしかった。

「嫌かい?まあそう言いなさんな、座りなよ」棒立ちになっている潮路は俯いたまま青年に促されて岩穴の入り口に腰かけた。「姐さんそっちは寒いよ、いくらなんでも潮風に当たり過ぎだ」こいつ…潮路は思った。あたしの顔を見たってのに姐さん姐さんて…潮路は少なからず違和感を覚えて青年を振り返った。だがいつも漁師たちからは無視されているせいか彼女は彼らの顔形をいちいち覚えていなかった。この青年が漁師であることは装束や風体から明らかなのだが…何処の誰かはわからない。あたしをおかみさんと呼ぶのを躊躇ってるのだろうか?あたしがどこの誰であるかは関係なしにしたいのか…潮路はそれとなく青年の目論見を察して先に言った。「…あんたは、この夜更けにここで女の来るのを待ってたんだね?悪いねあたしが来ちゃって、女と落ち合う約束だったんだろ?」青年は黙っていた。「…喋ってやったら無視かい、まったくあんたら男気のある漁師連中はほんっとに女々しいったらありゃしない!あたしが船貸しの女房だと、こうやってよく見てわかった途端に無視かい!つれないねえ~」この機会にと厭味ったらしく毒づく潮路を青年はまだじっと見つめているらしかった。「そんなに見るんじゃないよ!どうせ明日には、あたしがここへ来て泣いてたって事がこの村中に広まるんだろうよ!」話しながらも潮路はいつの間にか涙を流していた。火のはぜる音が小さく響くのと同時に、青年は何も言わずに潮路の手を握りしめてきた。細いが力強い手だった。潮路はそれが憤りのせいなのかこの青年に馬鹿にされているという疑心暗鬼から来る不安のせいなのか、あるいは胸に抱えた悲しみのせいなのか大声で怒鳴った。

「馬鹿にすんじゃないよクソガキ!」

しかし言葉とは裏腹に、次の瞬間に青年と潮路は唇を重ねていた。別に後からこいつの女が来ようが構うもんか…追い詰められたものに生じる一種の勝気が船貸しの嫁の体内に沸き起こり、髷が崩れて砂だらけになるのもお構いなしに岩穴の中で二人は身体と身体をぴったりと寄せ合いながらあっけなく交わっていた。潮路は体内に染み込むような男の匂いをめいっぱい嗅いでいた。…こんなに安心するものだっけ…男って…もっと厄介な、嫌なものじゃなかったっけ?こんなに暖かかったっけ…朝もまだ暗いうちに潮路は目を覚ましたが青年はもう居なくなっていた。潮路は砂を落として髪を適当にまとめると自宅へと静々戻っていった。漁が無い時期であるのを胸を撫でおろしながら感謝し、日の出前の村を一人熱のこもった下腹部を隠すように家路についた。青年が胎内に撒いた小さな魚たちが潮路の肉を食んでいるように思えたが彼女は特段それを厭わなかった。むしろ自分の肉に噛みつく小さな小さな目に見えぬ小魚たちを愛おしいと感じていた。

潮路が人目を忍んでこの岩場へ通うようになってからどれくらい経ったろうか。…彼女は自分が子を宿していることに気が付いた。すぐに流れる可能性もあるのでしばらくは伏せておいたが季節が移り、腹が目立つようになってからようやくこの船貸しの嫁は自らの亭主と義理の両親にその旨を報告した。潮路は何を恥じるでもなく逢瀬の若者が腹の子の父であることも…指一本触れてこない亭主に、枕元に頭を下げて言葉少なに誠意を込めて打ち明けたのだった。前々から離縁を覚悟している相手であったがすべてを演じるほど相手を見くびるつもりも無かったので告げたのだ。はじめのうち潮路はさすがの通称玉無しも怒り狂うだろうと予測していた。だが予想に反して船貸し亭主は黙って頷いただけだった。やはりこいつにとって自分はただの駒に過ぎないのだろうと潮路も思い、それからは亭主の寝入るのすら待たずに岩場へ赴くようになった。

ある日、月に一度の逢瀬のために雨戸を静かに開けている潮路の真後ろに船貸し亭主は寝間着で立ってこう言った。「お前、私はお前をこれでも、好いているんだよ」潮路はぞっとして振り向いたが口が動かなかった。亭主は続けた。「外で会うなんて腹の子が心配だ、なんならいい貸家を探して、相手もそこに来てもらったらどうだ」開いた口のふさがらない潮路は腹に手をやり、きちっと締めたはずの腹帯がずり落ちてくるのを感じていた。亭主は続けた。「相手は、ちゃんとした奴なのか、私は、腹の子も含めてお前を好いているんだ、これでも」影となって戸口に立つ船貸しの正体不明の愛…男というよりも父親めいた愛を潮路は本能的に嫌悪し、腹が重いのも構わずにもつれる足で精一杯駆け出した。

「あんたは、約束通りいつもあたしが来ると居るけど、本当はなんでここに居るのさ」潮路は相変わらず一時も外すことなく漁師の青年が忍んで来てくれるのを内心嬉しく思いながらも一抹の不安を感じていた。「あんたはさ、いい男じゃない!こんな年増といちゃついて何が楽しいのさ」青年は静かに微笑んで潮路をぎゅっと抱きしめた。磯の香を纏った青年の熱い身体はいつも潮路を暖め、また冷やしもした…潮路は腹が大きくなってからは気も強くなり、漁師たちにどんなに無視されても礼儀正しく挨拶すると同時に彼らの顔を一人ひとりきちんと見据えるようになっていた。村の漁師連の中にはこの青年は居なかった。「あんたはどこの人なの?ああ勘違いしないどくれよぉ、何も、あの亭主と離縁して所帯を持ちたいなんて願っちゃいないさ、あたしはたまにあんたとこうして…」子を宿してからも逢瀬は続き、青年は自分の舌で潮路の口を塞ぐとゆっくりと優しく愛撫してゆくのだった…こいつは罪人か何かでここに潜んでるのだろうか?でも…村では泥棒騒ぎも全く起きちゃいないのに、こいつ一体何を食って生きてるんだろう?第一罪人だったのなら暗闇であたしに声をかけたりしないはず、それとも女は別腹で、ただ単に女の肌を欲していたから声をかけたのだろうか?「ねえあんた…」喘ぎながらも潮路は快楽にわななく唇で男に問うた。

「…昼間は何してるのさ、あんたはどこに居るの、女房が居たっていい、あんたは…誰なの?」

何事もなく第一子は生まれた。それは玉のような男の子であった。身体には何の欠損も無いばかりか輝くような微笑みをたたえて満足げに母の乳房を吸うこの子供を厭う者は村の何処にも居なかった。産褥が明けてしばらく後、自らの身体が整った潮路は幾月かぶりの逢引の相手に子供を見せたくてたまらなくなり、簡単な…とはいえご馳走を作って重箱へ入れ、子供を背負って岩場へ赴いた。こんな事すべきでないという想いに相反して、実の父である青年に子を見せたくて我慢が出来なくなったのである。青年はいつものように岩陰に立っていた。その姿は心なしか少し元気が無いように見えた。「この子、一度寝たら起きないからよく見てやって」そう言って小さな火で照らされた岩穴で親子は対面した。青年は子供を暖かくて重い我が子をその腕に抱きじっと見つめて黙っていたがぽつりと言った。「こんなことが起こるんだな」潮路はその言葉を取り立て気にも留めずに青年に手料理を差し出した。「これであたしも一人前のおかみさんになれたんだよぉ!あんたには、感謝してる、さ、これ食べて」叩きや魚の煮しめや卵焼きを差し出した潮路は女の本能故の満面の笑みを浮かべていた。しかし青年は全く箸をつけなかった。魚は食べると気分が悪くなり卵は頭痛がすると言って優しく潮路の申し出を断り、布にくるまれた赤ん坊を丁寧に砂地に寝かせて頭を撫でると落胆した潮路を励ますべくいつものように舌を押し入れ、耳元で囁いた。「俺は姐さんが来てくれるだけでいいんだ」

この不可思議な青年との逢瀬は実に干支が一回りするほども続いた。潮路は女とあってか秘めたる忍び歩きを、亭主を除く周囲の誰一人にも悟らせずにやりおおせたのである。

その間潮路はぜんぶで10人の子を産んだ。子供たちは船貸しの亭主になついて彼にせがんではそろばんや読み書きを習得し、言われたとおりに挨拶し、皆快活で異様に泳ぎに長けているのだった。中には泳ぎを生かして漁師になると言っている子供もいたのでその子を漁師見習いとして漁師連に預け、何かで怪我をしても潮路は漁師たちに文句を言ったりもせず、いつものように礼儀正しく頭を下げ我が子の面倒を詫びた。そんな潮路の態度と彼女の子供らの麗かさや素直さに次第に村の漁師たちもほだされていったと見え、いつしか挨拶も帰ってくるようになった。潮路は度々漁師を労って差し入れを持って行ったり宴用の酒を振舞うようになった。子が生まれてからは船貸し亭主を玉無しと蔑む者も居なくなった。獲れた魚の値段交渉にも積極的に参加するようになった船貸しやその子供らはすっかり村に溶け込んでいたし、船貸しは潮路の全てを把握した上で父親としての愛を子供らに一心に注いだのだった。…夫婦の男女としての営みは一切無かったが稀に見る仲の良い家族であるのは事実であった。潮路もまた、昔からこの村の一員であったかのように扱われ、それと同時に亭主の独特の愛を静かに受け入れても居た。…心の安らぐ日々が巡ってきたことを誰にともなく感謝していた潮路の心にただ一点の曇りがあるとすれば、件の漁師姿の青年の正体であった。

「俺の後をつけてきたりはしないと約束してくれないか」先の第一子が生まれた直後に潮路は青年に言い含められ、それを実に馬鹿馬鹿しいほどの、女が男を想う忠実さで干支一周分守ってきたのだった。青年の羽織っている薄い着物の端を握り締める潮路の指の震えているのを見て彼は続けて言った。「姐さん、潮路さん、俺はね、あんたと会うのが本当に好きなんだ、このために俺は居るんだ、俺は…どこにも居ちゃいけない流罪人みたいなもんだ、子供たちのためにも俺のことは伏せておいた方がいい、そのためにはあんたが、俺の事を知るのを我慢してもらわにゃならんよ…好いているから言うんだ、信じてくれ」

この言葉を確かに10人産み終えるまで潮路は守った。上の子がもうあと数年で独り立ちすると潮路にも悟られたころに潮路は唐突に禁を破りたい衝動に駆られたのである。相手の男に所帯があってもいい。自分が昼間は船貸しのおかみさんを張っているその時に彼が何をして生きているのかをどうしてもこの目で見ておきたい。…この子が独り立ちする前に…それを生涯の、墓場にまで持ってゆく自分の秘密にすることを潮路は自らに誓うとその日もまた岩場へ静かに忍んでいった。子供たちは大変寝つきが良く全く目を覚まさなかった。船貸し亭主はといえばまるで娘の夜歩きを心配するかのように潮路を角まで見送った。この驚くべき態度にもすっかり慣れ切った潮路は嫌気を抑え、夫に感謝しつつ軽く手を振りながら足音を忍ばせて岩場へと歩いた。…この三角関係が通常の不義と異なっていたのは彼等全員が…その実善意の共犯者であったことだ。干支が一周するまでの間三者は部外者の誰にも理解出来ない心理状態で協力し合って子を成し、育てていた。

朝日が昇るよりもずいぶん前に青年は起き出して岩の外へ出てゆく…その後ろ姿を目で追いながら潮路は、女という女が本性として持っているであろう音一つ立てない猫のような身のこなしでそっと岩穴の入口へ忍んでいった。青年はこの丸12年の習慣で、交わって心地よくくたびれた潮路が寝息を立てていると思い込んでいるのか振り向きもせずにすたすたと歩いて行くようだった。潮路は這うように青年の後をつけた。漁師姿の青年はしばらくの間歩を止めずに浜辺を行き過ぎ、打ち捨てられた廃船の陰に身を屈め、そこから向こう側へ出る様子であった。…潮路は廃船のところまで裸足で走ってゆくと青年の姿を頭を出して見回した。あっ…と思う間もなかった、海水に膝まで浸かった青年がこちらを振り向いたのである。しばらく互いに声も出さずに見つめ合っていたが青年が手招きして潮路を呼んだ。

隠れて後を付けたことが見つかり、潮路は後ろめたさを超えて何となく怖いような、ともすると自分はこの男の逆鱗に触れたが為に絞め殺されるのではないかという恐怖を抱きつつも「ごめんなさい」と素直に詫びながら自身も裸足で海に入っていった。海水は冷たく泡立っていた。「…あんた、そっか、女の匂いを海の水で胡麻化そうって魂胆だね!」こう威勢よく言ってはみたものの潮路はしょげかえって続けた。「あんた、あの、あたしを許して、ずっとずっと守ってきたことを守れずにいたあたしを、後生だから…」そして朝日に照らされた青年の青白い顔を見て息を飲んだ。

今まで夜にしか見ていなかったせいか互いの歳の事は忘れていた二人だったが明らかに、二人には隔たりが生じていた。子を10人も産んだ潮路はまだ白髪は無いものの皮膚はたるみ、腰は丸みを帯びてすっかり娘らしさが消えて老けていた。一方でやせぎすの青年はと言えばまだ二十歳にもならないほどの若々しさを保っていたのである。

「姐さん、俺といっしょに行くか?」潮路は冷たい潮の押し寄せるのをふくらはぎに感じて身震いしたが頭の何処かでそれを見てみたいと強く願っていた。「俺の住処はこの向こうにあるよ、潮と潮が交差するところ、潮路だよ、俺は昼間もあんたを感じながら漂っているんだ」潮路は言った。「冗談よしてよ、潮の渦にあんたは居るっていうの…?そんなの…冗談でしょ」笑いながら言ったその言葉も、血のように赤い色が空一面と言わず合わせ鏡のような海にまで広がるといよいよ真実味を帯びてこだましたのに潮路は自分でも驚き、海から上がろうと踵を返しかけた。「姐さん、まあちょっと入っていきなよ、いっしょに行こう、そんなに見に行きたいなら、来いよ、姐さん、俺もあんたを手放したくないんだ、馬鹿亭主は置いて来いよ、来いよ」「結構だよっ」そう言って潮路は手を振り払おうとしたが青年の手はがっしりと潮路を掴んで離さなかった。その手は最早海の色そのものであった。潮路は小さく心のうちに叫んだ、こいつはもう死んでいるんだ、こいつは幽霊なんだ…。塩辛い海の中でその実命がけにもつれ合い、声なき声で罵り合いながらも二人はやはり口づけし、争いつつ抱き合っていた。潮路はその冷たい青い舌に自分の舌を絡ませていた。恐ろしさと愛おしさが入り交じり、海に混ざってゆく。すっかり青黒い顔に変化した青年は海の果てを見て哀し気に呟いた。「とうとう振られちゃったな、さびしいけどお別れだ、潮路に会えてよかったよ、姐さん、じゃあね」

命からがら砂浜にあがってきた潮路はその場にへたり込んでいた。それを見つけた漁師たちに介抱され、家まで運び届けられた、厚く礼を言いつつも潮路はぼんやりする頭で考えていた…あいつは最後に泡になって消えちまいやがった、何だったのさ?一体何だったのさ?泳いで行っちまった?あんな顔色で?疑問は募る一方だったが潮路は悲しくもあった。悪い事しちまったな…あんなに長年暖めてもらったってのに最後にあたし、悪いことをしちまったな…「母ちゃんどしたの?」子供の一人に話しかけられてやっと我に返った潮路は子の頭を撫でて微笑んだ。「何でもないよ」それから後もまた岩場へと赴いたがそこには誰も居ないばかりか穴の奥まで海水が入り込んでいてとても人間がこの奥で夜を明かせるとは思えない有様であった。「こんなとこに居たら波に飲まれちまう」潮路はそう一人呟いて家へ引き返した。頭の中で漁師たちがたまに噂する船幽霊やら海の怪物の事がしきりに浮かび、彼女の今までの行いがみな恥ずべき悪行であったとそそのかす自分の声にしばし打ちのめされてもいたが…子供たちには何の別条もなく、数年後には彼らのうち幾人かは若き漁師となった。

時は移り、子供のうちの一人が家業を継ぎ、あとは方々街へと出て行った。船貸しの亭主はポックリと逝き、その死骸に手を触れて潮路は心の内で丁寧に…商家のおかみとして客に対してするように囁いた。「ねえ、もし海の果ての死者の世であの人を見かけたら貴方、お礼とお詫びを言っておいてくださいな、子供は貴方の手柄になってるんですから…何だかんだ言っても貴方には私、本当にお世話になりました」…でも何度生まれ変わったとしてももう二度と一緒になりたくはないねえ…と心のうちに毒づきながらも暖かく納棺を見守ると潮路は浜辺に出た。子供たちはすぐに嫁を貰って嫁たちは信じられないほど早く子を成した。

潮路は海の彼方を見つめて毎朝日の出とともに拝んでいた。そこを孫である若い漁師たちが通りかかって話しかける。「婆ちゃん!朝っぱらから海を拝むようになっちゃいよいよお迎えも近えなぁ!」この軽口にも似合わず青年は朗らかに笑って祖母を見つめていた。かの青年に瓜二つであると内心潮路は思ったが口には出さずに言葉を発した、それは彼女の生まれ故郷の訛りの入った飾らない言い方であった。「ヘエあんたにゃしこたま稼いでもらわにゃならん、船貸しとしても取り立てにゃならんからまだ死ねんわ、あんたが船に乗ってる間は、がっぽり稼がんとな」孫は顔をクシャっとさせて笑った。「婆ちゃんひでえや、情けもへったくれもねえ鬼婆だ」その言葉はいかにも気さくな温情が含まれているのを潮路も感じとってにっこりと微笑むと、早朝に握って来た飯を孫に差し出して言った。「気いつけてなあ」かつてあの岩場で逢瀬を重ねた青年もこんな風に出航したのだろうかと潮路は思った。彼が漁師であったなら、漁師にはすべからく彼が宿っているに違いない…大昔に漁師たちにされた意地悪を潮路はもうとうの昔に水に流していた。潮と潮とが交錯する現世と常世の狭間に、今でもあの青年が居てこっちを見守っているような気がして、実に穏やかな気持ちで、潮路婆さんは海の彼方に手を合わせたのだった。