【オルハ】
幹線道路の一歩先には木々が生い茂り人間の立ち入れない世界を形成している、そこに俺は立って顔を茂みに突っ込む。見える銀色の葉、鳥の聖地と名付けられた異空間に佇む銀色に光る葉を持つ一本の木に幼かった俺はオルハと名前を付けた。名前の由来なんて無い、第一に俺自身の名前にさえ由来も意味も無いんだから、特定の木を見つけて心にこだました音そのものを名付けたというこの行為にだって意味なんか無いんだ。オルハは年中銀色だった、当時そこは自分の通学路ではなかったので夏休みなんかには早起きしてオルハを観に行った。オルハを見ている時に俺の頭から言葉という言葉が消えてゆき、鳥のさえずりだけで満たされ…俺は鳥色になる、そのすぐあと、友達と遊んだり塾へ行ったりしてパッとオルハの事を忘れてしまう、そんな自分が怖かった。大人になってからもオルハの事を思い起こすときには普段の日常とは別の世界を感じているような気がして、時折俺は考えた。無理矢理に自然界の神秘と人間の運命を結び付け、ひょっとしたらオルハという名前の女(もちろん美人)と自分は結ばれているのではないだろうか?とか、いやいやオルハという名前の男(音楽の天才とか)と数奇な運命で知り合って意気投合してバンドを組んで一躍有名になるとかそういう凄い事が起こるんじゃないのか?…そんな風に都合よく夢想していた時期もあった。でもこの夢想さえも日常の体感とは何処か切り離されていて、俺はすぐにオルハの事を忘れてしまう。そうやって一本の木の事をまるで一晩の不可思議な夢みたいに、思い出したり忘れたりしながら過ごすうちに俺自身が現実世界では結構な年齢になってきてしまった。休日のジョギングコースに幹線道路沿いの大通りを選んだのは勿論オルハを見るため、もとい感じるため、もっと言えばあの素朴な非日常を定期的に体感するためだったんだけど、哀しいかな、ジョギングに熱中しているとオルハという一本の木の事なんか完全忘却したまま家まで完走してしまう。
あ!と思い出した時にはもう遅い。
家の前、また家の前。次こそは次こそは…と願ってもまた俺はオルハを忘れてジョギングし終えてしまう、作業を作業としか認識出来なくなっている自分が俺は怖い。とても怖い。こんな風に人生そのものを完走させてしまう事それ自体を俺は憂いている。何故か?わからない…そもそもオルハの事なんて誰にも喋ったことが無い。喋るとしたって中身の無い話なんだ、幹線道路わきの野鳥保護自然区域の森林に、人間界の及ばない自然世界が広がっていて、ただそこに一本の銀色に光る葉を持つ木が生えているというだけなんだから…。せめて今、たった今、この今は俺はその木に幼いころにオルハと名付け、それが今でも生えているし、おそらく俺の死後も生え続けるであろうことを俺は認識していると、ただこれだけのことを書き残しておこうと思ったに過ぎない。オルハ…ああ、俺は一時間後にはもうこの木の事を忘れている、呪文のようなこの名前を俺は忘れ、ロボットのように日々与えられた任務を繰り返す。生命としてここに存在している自分のちっぽけな日常の裏に、確かに現存する絶え間なく続く言葉の無い神秘を忘れている、神秘の忘却そのものが俺にとっての一つの悲劇なのだ、何の意味もないその名前を俺は繰り返す、オルハ、オルハ、オルハ…これこそが祈りの本質なのだと頭の片隅で気付きながら。