あれは安政の頃でしたかねえ、長崎から入ったコロリが江戸までやってきましてねえ、ええ当時は黒船でやってきた伴天連たちが何かいかがわしい術を使うのだなんて言ってみんなで大騒ぎしていましたよ!ずいぶん人死にが出たものです。今思えばあの時からだんだんと江戸は衰退していきましたね。それがまあ、久しぶりに江戸に来てみましたらきれいさっぱり、昔とは大違いでびっくりたまげましたよ!もう残っている武家屋敷もありません、建物もみんな変わりましたね。江戸城も無血開城してから公家の方々が移り住んでいらして…いや本当にすべてがひっくり返りました。あれから私はしばらくここを離れていたので一体何が起こったのかは存じませんがまあ、何とも、四角い建物ばかりなのには何か意味があるのですか?ええ?ああそうですか、たくさん人が詰まっているのですねあの中に。もう髷も結わなくなって、昔は髪を切られるのを男だって恐れたものですよ。髷を落とすから勘弁してくれなんていう話がまかり通っていた時代です。コロリの当座もバタバタと人が死んでゆくもんですからみんな必死になって参詣していましたよ!暇をもらっていた間に何があったのか私は知りませんので、昨今の新時代の方々のお考えというのは、この古い人間にはちと難しすぎます。
それでも事情を聴きましたら、驚くじゃありませんか、まだ世界の人間というのはコロリみたいな病気を恐れているんですねえ!
安政の頃も長崎から広まるのをそれぞれの関で食い止めようとはしていたみたいですがね。それでも人間の性質というものは変わりませんなあ、こういった病気が流行すると、むしろ、どうせ死ぬ運命ならば馴染みの女には尚更逢いたいし、どうにかして自分と自分の周りは助かりたいから神社仏閣にお参りに行く、風が吹けば桶屋が儲かるの要領でこれ幸いと商売を張り切る、結局神様も病気もそこから広まってゆくものですねえ。神様も病気も本当は生き物と同じ性質を持ってるんじゃないかって思ったりも致しますよ…まあこんな風に、駆けずり回る人々を非難した後で言うのもなんですが、いつの世も閉じこもりっきりは尚、よくありません。生き物というのはお天道様の光を浴びて、丑三つ時には寝入っていなきゃ身体は保たれません。これはいつの時代になっても、人間が人間である限り変わらない真実のようなものですよ。
あの当時からちょっとだけ時代が進んだときにはコレラ患者の家には黄色い旗を立てましてなあ、その家の周りを消毒したもんです。もっとも私はそれを亡霊になって見ていたに過ぎないんですがね、何とも陰気なものですよ。病気に関しては全体全部でひとつなんです。何処かの誰かだけをこの世からつまみ出したって解決しやしないんですよ、この世とあの世は一つながりなんです。江戸者のふりをしていましたがこれでも、私はもともと農家育ちなもんでしてね、病気が広がるのは大抵虫に関係していると私は見ているんですよ。白い蝶々が異様に増えるとかバッタやイナゴがイナゴ合戦をするみたいに滅茶苦茶に発生するなんて時には、新時代風に言えば何かの菌類が足りなくなって、その結果虫の食べ物が馬鹿に増えたということを示しているような気がするんですよ。菌類をどうのこうのするためにはまあ、土が健康でなくちゃならない、もしかしてこの新時代の方々は土を軽々しく扱っていやしませんかな?…いや、老婆心からの要らぬお節介、誠に失礼いたしました。かく言う私もコロリで死にましたから、時代が変わっても病に苦しむ人間というのをつい、放っておけないんですな。
これはまあ、古い時代の亡霊のたわごとだと思って聞き流してください。