散文詩【白蝶貝のロザリオ】

ロザリオの祈りを一緒にしていた彼女に振られたなんていう話をしたら、人は僕を間の抜けた夢見がちな男だと思うだろう。否定はしない。事は唐突に起こった。彼女は言った。『好きな人が出来たの』春だった…月曜日の一連目だから聖母マリアがお告げを受けて『はい』と答えたことを黙想しながら数珠を手繰っている最中だった。三粒目を繰るために握り締めたまま天使祝詞を唱えるのを止めてしまった彼女の、染めた髪の色が陽光に透け、栗色に輝いていた。染めなくってもかわいいよと僕は何度も言ったんだけどその日初めて、髪の毛綺麗だね、と口にしてこなかったことを酷く後悔した。それ位彼女の髪は光っていた…いや髪だけじゃなく、いつも淡い色の服もとてもお洒落だったし、とにかくもっと今まで美点を誉めてこなかったことを改めて後悔した。彼女は美しかった。彼女の、血管が透けて浮くほど手に握りしめた白蝶貝のロザリオに涙が一滴静かに落ちる。でもその一滴は僕にとっては全部を変えてしまうくらい重い水滴だった。水は絶えず渦巻いてH2Oだということは解明されているけれども水の電子的動き自体は実は完全解明されたわけではない。目の前のこの人だって僕の事を好きと言ってくれたあの日から絶えず動いていて、一緒に祈りながらも、ついに別の存在になってしまったんだ。海の中で白蝶貝はどんな夢を見るのだろう?彼女はどんな未来を夢見たのだろう?僕は安易に、教会で出会えたこの若い美しい天使めいた女性とずっと一緒に居られたらなあとボンヤリ考えていただけだ。若くて、可愛くて、センスが良くて、しかも信仰がある…これだけで彼女がどんなに稀な存在かが解ると思う。僕みたいなのんべんだらりとした人間が出会えるような人じゃないんだ。告白されたのもまぐれ当たりみたいなもんで、ああ、確かに…幸せの絶頂だった…。『ごめんなさい』やっとのことで彼女は言った。心底申し訳なさそうに頭を垂れている、その手入れされた長い髪を今風にふんわり結い込んで束ねている髪留めがキラキラ光っているのをじっと見るしか出来なかった。だって僕は彼女が何を求めているのかわかっていた。わかっていたんだ。赦しだ。赦しと多少の…懺悔。「あのさ、お願いがあるんだ」そう、僕への施しそのものを彼女は求めている。僕は乞うた、彼女は僕が乞うのを叶えるしか許される方法が無いと思っている。もう何もかも全部が一瞬の夢だったことも悟っていた。ここまで決意している人に向かって駄々をこねたり、話が違うと言って脅したりするのがどれほど神様に背く行為であるかは、たとえ信仰が無くったって痛いほどわかるだろう。僕は泣くのを必死に堪えようとしたんだけどでも、やっぱり無理で、いい歳をしてるのに嗚咽を漏らしながら彼女に願った。施しを願った。

「…今日のロザリオの祈りだけは、最後まで一緒に唱えてくれないかな…?念祷でもいいんだ、言葉に出さなくても、聖母マリアのお告げとそれに従う五連全部を一緒に祈ってくれないかな、君の未来を僕にも今だけは願わせてくれないか、そしたらもう全部、それでいいから」

あの日唱えたロザリオの祈りほど、僕の精神に深く刻み込まれた祈りは無かった。君は聖母マリアのように導かれたんだろうね、幸せになってね、それでも天使のお告げに対し『はい』と聖母マリアのように従順にすべてを悟っていたのは…案外、僕の方だったのかもしれない。だって天使からの告白には、聖母マリアじゃなくったって、それが我が身を喜ばせるものであれその真逆であれ…『はい』としか答えようが無いんだから。