幸福に上限があるならば神様、私はもう十分幸福ですので一時的なラッキーを求めたりする気持ちを捨てさせてもらいます。
この前暴言を吐かれた事について茨の冠との結びつきを感じたのです。
だとすれば神様、私はもう十分幸福ですのでこれからは一時的なアンラッキーを、誰かが避けたいと請い願うその分くらいは引き受けようと決意いたしました。
私はアンラッキーを恐れません。
言霊と言ってこの国の人々は悪口や怨念という概念を殊のほか恐れます。
私自身がこのように一時的なアンラッキーを引き受けると申し出ることさえも憚られるといった体で皆さま口元を抑えて息を潜めておいでです。
でも思うのです、この程度の物事、実にどうってことはないと実に痛快でさえあると実に…茨の冠の意味をそこに見出すと、私が理解さえすればこれでこの地域に穢れを恐れる者が一人減ったと同様、嘲りを恐れぬ者が一人生じたことになり、地域全体の割合からすれば少なくとも、それでも悪口にのされたりしない人間の居ることの証明になりはしないかと思うのです。
幸福者の割合が増えればそれだけ世界は救われるのではないかと思うのです。
顔の見える相手から、匿名ではあるにせよ実在の相手から受ける嘲りは確かに人を一時的に参らせます。
これをラッキーだと思う人はいません。
これを崇高な神の御稜威と結びつける人はあまり居ません。
断っておきたいのはラッキーそれ自体は全く以て善い事なのです。
けれども自分は周囲の人よりもラッキーな人間だからという事に固持する気持ちがあるならば、いっそ周囲の人の一時的な不幸を引き受ける気持ちで生きたほうが豊かになれる気がしたのです…そしてまたアンラッキーも同様に、神秘に近づけるための善い事なのです。
そうです神様、私は恐れを捨てたいと願うほどに強欲なのです、幸福なヨブとして生きたいのです。
そのために神様、幸福に上限があるならばどうか私に、誰かが避けたいと願う一時的なアンラッキーを引き受けさせてください。
散文詩【幸福なヨブ】
