我らが主イエス 嘲笑の守り手よ
十字架や茨の冠
これが嘲りを如実に表すものであると
とても現実的に感じられるお恵みを感謝いたします
おかしいとお思いでしょうか
嘲笑されたことを
あなたと一致するお恵みと称えることは
気の狂った人間のすることでしょうか
それでも我らが主 嘲笑の守り手よ
苦しみが その苦しみが 嘲笑の苦しみが
あなたの背負った十字架に似たものであるのならば
感謝せずにはいられないのです
同胞から受ける嘲りが神秘なのはそこに善の在り処を見出すからです
何故なら善とは
国籍や人種を問わないばかりか
ありとあらゆる生命にとって心地よく働くものであるからです
善とは
同胞の中にあるのでもなく
一致させた服装の中にあるのでもなく
決められた言語の内側に縛られているようなものではないからです
嘲笑を受けるたびに善が何であるかを強く思い知らされる これが嘲りの神秘です
嘲りとは 美が同胞の中にあり
一致させた服装の中にあり
決められた言語の内側に縛られていると信じている者が時に
そうでないものを打つための言葉や態度の鞭を指します
嘲りを行うものは調和を乱すものを 例外者を見つけては打つのです
決められた言語や一致させた服装や同胞の中で
自らの善を行うということは
調和を壊すことでもあります
この調和が永劫に続くことを良しとしないという意味に於いて
我らが主 あなたは悪でさえあります
その無理解に苦しんだあなたを
私は枠の外側で理解します
何故なら
誰も自分の行為を理解する人が居ないと思って涙を流しておりましたら
あなたが見えたのです
嘲りを受けたあなたが見えたのです
我らが主イエス 嘲笑の守り手よ
その嘲笑をした裏切りの弟子から
嘲りを受けた事を祝する私を
どうか支えていてください