セーラームーンが観れなくて泣いたことがある。幼少期から女性との接し方がよくわからず、それでも、僕は女だし女と仲良くしなきゃならないと思ってみても女の子の最低限のその最低限の線引きに自分がどうしても満たないので、いつももどかしさを感じていた。女の子の頭の中には秤があって、自分の領域を一定基準に保つ事と他人がその基準を満たすか見極めることで常に揺れ動いている。しかもこの秤は女個々人でそれぞれに心の内側で装飾までされている。その秤が生まれつきそこまで作動していないと女同士の輪に於いてはまるで不具者のような扱いを受ける羽目になる。僕は喋るのが苦手だったから尚の事、口下手な女なんてのは女に非ず、弱肉強食の法則は可憐な世界ほど厳しいもんだと俯いて男の世界を見る。かといって男の子と仲良くしていたかというとそうでもなく、男の子の持つ独特の方位磁石を持ってはいなかったので彼らの楽しそうなじゃれ合いをただ遠くから眺めていたに過ぎない。両性に属しにくい感じの子は確かに他にも居て、ある程度の年齢を過ぎたあたりからは仲良くなれたけれど子供時代の性はふたつきりだから出会うに出会えなかった。哀しいのは大人になってからも僕は女のふりをして、誰かは男のふりをしているので、本当はもっと楽しく過ごせるはずの『友達』っていうのは、誰にとっても存外に多いものであるような気がするのに、壁があって素直になれない。あの歌じゃないけどほんとに、ごめんね素直じゃなくってって言いたいよ。あの頃の女の子たちが観ていたセーラームーンのアニメを小学校入学当時テレビの前に鎮座していざスイッチオンご尊顔を拝見、とばかりに意気込んで観ようとしてみたものの、開始数分でこう呟いた。…ああこれは僕が観ていいやつじゃない、僕が観たらダメなやつだ、というかどう考えても見るに堪えない…何故?などという問いが起こるその前から、自分の本性の属している性感覚というものがどんな人間にも内在していて、それと自分の取捨選択があまりにも不一致の場合、警告が出る仕組みに生き物は皆なっていると思う。じゃあキン肉マンが観れたかというとそれも無理で、自分の事も、僕と言っているけれど俺とは言い難く私及びアタシとはもっと言いにくい、なんでピンクと青の二種類で男女を示すのか、セーラームーンが生理的に観れなくて隠れて泣いた鬱屈した子供時代。
散文詩【セーラームーンが観れなくて】
