散文詩【苦い苦いマリアの涙よ祝されよ】

天使祝詞を口にすると苦みが走る。
御胎内の御子イエズスも祝され給うと果たして誰が言い得るのか、この矛盾に関わらない人間は一人も居ない。
ゴミ拾いの最中に手に取ったのは妊娠初期のエコー写真。
ポラロイドみたいな即席写真は女の手のひらに収まるくらいの小さな紙切れ、このような命の切れ端が早朝の大通りの片隅に隠れるように落ちている。
エコー写真というものは概して小さい。
胎児の大きさを示すために小さく作られているのだろうか。
それが何故エコー写真だと咄嗟にわかったかというと何を隠そう私も同じようなものを持っていたから。
長年持っていたがある時人為的な罪悪感に浸ることに飽きたので捨てた。

これを残酷と言うのは浅はかだ。

妊娠現象は女の意志を超えたところにある上、こんなものに身を任せたら子供の数は一人の女につき5人10人は当たり前、誰もが避妊に頼り、誰もが切実に肉体を燃え上がらせる一方でそれ以上に必死に熱を冷ます努力をしている。
性欲とは生命欲で、生命欲というものほど滑稽なものは無い。
その努力には手術も含まれ、嬰児の命を絶つことも含まれる。
それを命の外側にいるかのようにやれ残酷だやれ淫乱だと我が物顔で言うなかれと私は思う。
さてこのような遺物を燃えるゴミに捨てるのが忍びなかったのかこのエコー写真の持ち主は公園沿いの緑道へ放り投げたらしい。
ヒラヒラ落ちてゆく過去のしがらみをどんな気持ちで見守ったかは案外誰にでも想像がつくのではあるまいか?…ともかくそれを私が手にしたのは胎児の撮影された日付から7年も経過してからのことだったと見える。
避妊というものが実質ピルとコンドームしか無いというのが我らの国の過ちだ、ピルを飲む代わりに女は嗅覚が鈍り男の取捨選択能力を失う、ピルが飲めなくなると避妊器具を胎内にぶち込むことになる。

性的合一、そして命を増やすまいと死に物狂いで快楽に歯を食いしばる矛盾を咎めるならば、童貞と処女を崇め敬う道筋しか愚鈍な我らには残っていないかに見える。

子供の取捨選択と性的快楽を邪だと言うならばほとんどすべての生命は等しく下劣な存在となる。
私自身でさえ口づけするとき、胎は自らを開こうとするが意志はこう唱える、どうか妊娠しませんように、これを哀れと嗤うなかれ…聖母よどうか私のような哀れな人間のために今も、数多の胎児の臨終の時のために永劫に祈り給え。
この対立する事象に対して全くの傍観者を決め込むことはおそらく誰にもできまい。
そんなことは不可能だ、中絶したことが無いからわからない、男だからわからない等というのは戯言だ。
自分の至らなさ全てを胎内に留めたであろう一人の人が、捨てたと思しき命の切れ端を無慈悲にゴミ袋に入れつつ私は唱える。

苦い苦いマリアの涙よ祝されよ、この世の矛盾が晴れる地点へと、我ら罪びとを導き給え。