聴いたこともないラテン語を懐かしく思う時が僕にだってある。断っておくとラテン語を僕は知らないがそれでも以前、ラテン語めいた言葉を大声でやたら大仰に喋りながら通り過ぎてゆく自転車の爺さんがこの土地には出没していた。一言で言うと変人奇人の類。不思議だったのは僕はラテン語を知らないがそれでも爺さんの似非ラテン語喋りを聴くとやはり、それがどう考えても今世で聴いたこともないラテン語らしいと感じることだ。おそらく聖書を読んでいた…読むというよりも吟じている様子のその爺さんの事を、惜しい事に越してきたばかりの僕は誰にも聞くに聞けないまま時が過ぎた。今思うとたぶん誰も彼の事をどうのこうの説明出来やしなかったと思う。ラテン語爺さんは本人に降りてきた精霊の赴くまま発声していたに過ぎないのだろう。もっとも、そもそもそれがラテン語だったかどうかも僕はもとよりこの地域の誰も知らない。こんなこと言うのはおかしいって思われそうだけど僕はたまに気の違ったと思われる人が受けているであろうビジョンを、羨ましく思ったりもする。だって彼らは聖書の言葉を、言語中枢以外の場所で知覚または表現している様子だから。凡人にとっては言葉っていうのは言葉という区分でしかないんだけど彼らにとっては聖書の光景がまざまざと目の前に広がり、言葉をいつのまにか吟じたり歌ったり図形に表して絵という段階まで退化させずにはいられない感じなんだ。
それってもう芸術だ、爆発するエネルギー、区分に捉われない表現…それにもう一つ奇妙なのは一人の人間の時系列順の人生経験に於いて決して知り得ないような事を、彼等変人奇人は知っていたりするってことだ。
件のラテン語爺さんが本当にラテン語を喋ってたのかはわからない。だけどやっぱり仮に似非ラテン語であってもラテン語センテンスと自身をうまい具合に感応させていることは確かだった。彼のほかにもちらほら、街中で聖書から引用したと思しき箇所を1960年代の具体美術ばりの奇天烈さで装飾したりしている人がいるけど、果たして当人が本当にアートを知っているのかもわからない。それなのに彼らは確かに精霊と思しきものを受信してアート的体現をしている、表現をやめない。変人奇人は聖書の言葉に光明を感じやすいのだろうか?ああそういえば、ラテン語爺さんの自転車籠にはいつもラジオが入ってたけど一度も鳴っているのを聞いたことが無かった。あれはやはり阿頼耶識電波受信器の役割を果たしていたのだろうか?…僕はそんな風に変人奇人をたまにある種の羨望を込めて横目で見ていたんだけど、いつの間にか居なくなってしまうのが彼ら共通の特質なのか、あるいは精神科にでも通って治療という名目で凡人化没個性化されてしまったのかは…ラテン語同様、僕はもとよりこの土地の誰一人、知る由もない事なのがちょっと寂しい。そういった理由からきちんと聴いたこともないラテン語を僕は最近懐かしく思う。