散文詩【山の男】

草木の生い茂る山の只中に建てられた小屋は何かでいぶされており、燻製のような匂いが辺り一面に立ち込めている、山と一体化しつつある男はその小屋の近くに居た。

男:厭世の念ってやつですかね、都会を去り山間部の森林区域へ来たんです、独り身の男ですし失うものは何もありません、自分の性格を表すなら…言ってしまえば人間嫌いってとこですかね、それなのにこうして人に喋りたくなるのは我ながら不思議です、どこかでこの体験を共有したくてたまらないんですよ。
といっても言葉が消えているときもあるんです、生まれ育ったのは、地図で見るともう山間部といっても差し支えない場所なのですが、実際に現地を歩きますとやはりどこもコンクリートだらけなんです、大規模都市開発が行われた地域ですよ、電車で市外のほうへ行くと確かに地図通りの森林世界が広がっていて、そこにズドーンと、でっかいビルとかが建ってる、ある意味近未来的な場所でしたが、今見たら、人間が自然と争っているように見えてそれはとても前時代的で古臭いでしょうね。
そういう、人間社会の只中に存在する自然林を見て育ちました、あのビルのすぐそばの林の中に、誰にも知られずに静かに住めたら、それはどんな感じなんだろうっていつも考えてましたよ。
そういうぼうっとした子供でした、で、ぼうっとした大人になって、人間社会は息苦しいので森に入ったというわけです。

男は煙で何かをいぶしているらしかった、薪を割るために立ち上がり、ひとしきり斧をふるった、朝もやの空気はだんだんと下方へと流れていったらしい、山には男以外誰も居ないようだった。

男:ああ、これですか?これはね、肉ですよ、いいえ撃ったものじゃないです街で買ってきました、猟銃はなかなか難しいですし第一、動物の肉を全部解体して取っておくには冷蔵庫が必要でしょ、電気代は払いたくないんですよ、だから食べる分より少し多めに…一週間分くらいかな、買ってきてこうやって燻すんです、虫や獣も来なくなるし一石二鳥ですよ、そう、こうして何か焚いておけば暮らせます、けど、何も焚かないと食べ物の匂いにつられてなんでも来ますよ熊とかイノシシとかもね。
防犯上、焚くしかないんです、燻製の匂いは動物には受けが悪いみたいで好都合です。
けど、こうしてたった一人で暮らしていると言葉がしゃべりにくくなるんじゃないかっていう恐れはあります、でも同時に、言葉なんかもう必要ないんじゃないかとも思うんです。
ギリギリのところで、食料の買い出しをするために最低限喋れなきゃダメだって自分に言い聞かせてます。

薪が一定数積まれると男は一息つき、小屋の前に座って鳥の鳴き声や獣の声に耳をすませているようだった、暁光が遥か下方に広がる里らしき場所を照らしたが、男の住まうこの山は陽の光の陰になっていて暗かった。

男:この山、誰も来ないから住んでいるんですよ、陽の光のあふれる緑豊かな山にはね、キャンプしに来たりする人が来て…なんかこれ偏見かもしれないんですけどアウトドアを好む人って若干騒がしいんですよね、おとなしい人は山には来ないんですかね?…都会に居る時よりも下手したら、山の中のほうが人の気配が騒がしいなんてのは皮肉ですよね、そういうのが嫌で山に来たのに彼らに出くわしたくないんです、興味本位で、無遠慮にカメラ向けられたりするのは嫌ですし。
はじめのうちはこの山は陰鬱だなって思ってましたよ、さすがに…自分が思い描いていたのはあくまで、自分の見てきた風景、生ぬるい人里の森林だったことを痛感しました、でも住めば都ですよ実際、誰にも干渉されず、誰にも覗かれず、誰にも「一日中ぼーっとしてる」とか言われずにこの小屋の前で森の空気を吸えるんですから、ありがたい事ですよ。
人と接しなくなったら人の事なんか考えなくなるのかなって思ってました、考えない時もありますよ、気が狂ったと思われるかもしれませんが、頭の中まで全部葉っぱの茂みで覆いつくされてるみたいな気分になります、それをもう気持ち悪いとかきもちいいとか思わないんです、それが自然なんです、でも…
言葉が消えることは出来ないんだなあと実感してます、ある日、この周囲を歩き回ってたんですよ、なにとはなしに木の枝や葉を見ていました、そろそろ冬だなあなんて思いながら、山には秋はありませんから。

一陣の風が吹き抜けていった、男は風が自分に呼応したとでも言うような嬉しそうな表情を見せて笑った、手には豆が出来、頭は、散髪が面倒なのかねじれる髪の毛を一つに束ねていた。

男:はじめにそれを見たときはびっくりしましたよ、だってどう見てもツタ植物の茂みを、離れて、ある角度から見ると『ありがとう』って記されているように見えるんですよ、書かれていたというよりも植物全体がひらがなで、ありがとうの文字を形作っていたというべきでしょうか、けどもうそれはそうとしか見えなくて、そしてやっぱりうれしかったですよ、奇妙なんですけど、うれしかったんです。
ここにきてから頭がぼうっとして一日の立つのがものすごく速いです、30分くらいで夕方になっているように感じる時もあります、人間って言葉のやりとりで時間を長く体感しているように錯覚しているんですかね?時間を長く体感することが幸福を示すとも思えないんですけどね、自分には。
言葉がないと何もないんです、比較することもない、もう全部直感の世界ですからうまそう、とか、毒がある、とか、安全か危険か、とかそれだけなんです、それをいい悪いに辛うじて当てはめて過ごす、植物が人の言葉を覚えて自分に話しかけてくれているように感じたあの出来事以来、散歩をするときは…といっても小屋の前の畑が荒らされるかどうかを見張ったり、鹿が死んでないかどうかとかをチェックするだけなんですけど、ともかくそういったときに植物の記す文字を心なしか探している自分に気が付いたんです。
ああ、鹿が死んでると厄介なんです、クマが食べに来ますからね。

男はふと思うことがあったようで小屋へ戻り、また扉を開けて外へ出てきた、手にはサランラップに包まれた何かがあった、それを、さっき座していた場所へ座る合間の時間さえも惜しいというようにもう口に含んで食べているようだった。

男:お恥ずかしい、森に入って一番思うことは、とにかく腹が減るってことなんです。それも甘いものが食いたくてたまらなくなるんですよ、野菜なんかじゃとても身体が持たないんです、食費が都会に居た時と同額なんです、おかしいでしょ、里に下りた時にはうまいものを食べたくて仕方が無くなるんです、これを、別の山に住んでいる人間にネットで話したことがありますがどうやらみんなそうらしいんですよ、山はとにかく腹が減る、もっとも、仙人みたいな人もいますよ、その人は人里に降りたときにレストランに行くなんてのは失笑モノらしいですけれど。
これは手作りのパウンドケーキです、火を焚いて作りましたよ、普通のお菓子を買ってたら大変ですよ、これは山というか森というか、自然の中に居るだけで自分の意識や精神といったミクロの「気」みたいなものが、その場の自然林の気と循環していて、けれども人間の性質の強い人にはどうしても、山の気を人間用に変換できないから結果、気が不足して、腹が減るんじゃないかと自分なりに考えても居ます。
自分は人間らしい人間なんだと考えるとちょっと悲しくもなりますがね。

食べ終えた男は今度は歩き回った、何か探すように地面や小屋を、少し離れた場所から、一枚の風景として改めて観察しているようだった。

男:こうやって見ていると、自分はあの小屋から大して移動していないのに、この場所全部が全く別の場所に移動しているように感じる時があるんです、移動というか移行というか、外見はそっくりなのに中身が丸ごと入れ替わっているような、それに対して違和感は感じません、どちらかというと…感動に近いですね、今日はあんまり移動していないみたいです、人間の言葉を使っている自分には、今は場所の…次元移動みたいなものが見えなくなってて、目くらましをされているのかもしれません。
人間の空間で例えるなら、扉を閉めていた部屋があるとするじゃないですか、その部屋は扉を閉めているこちら側からは予想もつかない変化をしている可能性があるんです、そういった変化が、扉などの具体的な目隠しを使うことなく生じる気がするんですよ。
実際、山はそういったことがたびたび起こるそうです、どこかへ行こうと思っても出られなくなったりします、こわいというか…引き留めてくれるんならうれしいですけどね。
人間に引き留められるのは苦しいですが、山そのものに引き留められるのはありがたい事です、これって古代の山岳信仰みたいなものですかね?自分は無宗教だって思ってましたけど畏怖とかありがたみといった主観的な喜びをだんだん強く感じるようになってきましたよ。

男の歩く道は決まっているようで、草やぶがそこだけ浅く凹んでいた、男は立ち止まると大きく息を吐いた。

男:食べ物だけ山に移動させて食べれないかなって思ったりもします、嫌なんです、人里へ行くのがね、けど同時に人が恋しくもある、でも恋しいと思えるような人間はたぶんこの世のどこにもいないんです、それが別に特段悲劇的でもないし、寂しくもないからこうして山に居るんですけどね、それでも不便を感じる時がありますよ、どうしても人里に降りておいしいものを食べたくなる自分自身に。
草や土やなんかが頭の中にばーっと広がってて、そこから言葉を浮かび上がらせるんです、片言になってるときもあるとは思います、人の言葉は聞きたくもないって思う時もあります。
人間ってなんで人間同士で比べ合うんですかね?あの習性はなんなんでしょう?ニュースも、いつの時代もはみ出し者をとっつかまえたっていう話題ですよね、科学は進歩しているとは信じたいですけど習性は古代から変化してないと思う時がありますよ、聞きたくないんですよ、ここは山の中だしある意味安全で守られてる、そういった余計な情報からね、けど人里に降りると人間は比べ合って貶し合ってます、助け合っているのかもしれませんが自分にはよくわかりません、比べ合って競い合って序列のあるなしにかかわらずはみ出し者を探しているんです、それを助け合うという言葉に置き換えたりしているのを醜いって思ったりするんですよ、そうです、暗い人間ですよ、だから山に来たんです、山間部の森林区域に住みたいって願ったんです。
人間をこんなにも信用できない人間ってのはちょっと哀れだなあとも思います、けど、植物の微細な声というか何というか…そういった識別不能な意識みたいなものも確かに現存していて、確かに、在るんです、山の世界は在るんです、小屋の周囲を見回るのも山の世界のこの区域のニュースを見るようなものなんです、自分にはこっちのほうが大事な情報です、ありがとうって記されていたりもしますからね。
人間が新しいものを作ったとかそれを人間が壊したとか…どうでもいいんです、ウイルス?ウイルスはたぶんどこにでも居ますよね?それこそ山が変異していたら知らせてくれるはずです。
ああ、この道ですか、これはちょっとだけ草を刈らせてもらったんです、通り道にさせてくださいって、それに対してこう…無言の…言外(げんがい)の返答があったように感じたので草を刈ったんです。

男はそこに突っ立ったまま今度は両手を広げてしばらく動かなかった。

男:人間の仕組みって人間同士の呼応でしかないですよね、山の仕組みは山と何かとの複雑な呼応なんです、最近、もしかしたら宗教やってる人たちの言う祈りっていうのはこの呼応、応答のことなんじゃないかって思ってるんですよ、確かに応答は在るんです、だから応答するんです、それは人間じゃ解明することが不可能だから神秘なんです。
今、こうして人間の言葉でこの仕組みを語っていますが本来はもっと…全部動いているのを感じるんです、言葉なんかよりももっとずっとこっちで動いているんですよ、移行しているんです、だからきっと過去や未来も移行しつづけて発生し続けていると思ってます、これを言葉で語るのは不可能に近いですが、葉っぱの奥をこうして透かすだけでもそれが古代から伝わるものだとわかるじゃないですか、それと同じことです。

男はそれ以降、その日はもう口をきくことが無かった、一枚の葉の葉脈をじっくりと見てから何かの合図のように頷き、そのまま畑で作業をし、小屋全体を燻して夜まで微笑んでいた。
山には、山と一体化しつつあるこの男以外誰一人、人間は居なかった。