またいつもの父親の怒号が聞こえる。あの団地の入口の当たりだ。俺は心臓がバクバクしている。近寄ってみると父親と数人の男たちが居て父親は怒鳴っているというよりも悲痛な叫びをあげているとわかる。他の男たちは若干笑ってさえいる。俺は意を決して父親の腕に手を置いた。心の内では振りほどかれるか逆上されるかと思ったが振り向いた父親は俺の顔をじっと見つめて唐突にこの世を認識したみたいに我に返った様子だった。俺は言った。口の中がカラカラだが気にせずにそうであってほしい事を言った。『大丈夫だよ父さん、大丈夫わかってもらえる、俺が奴らに言い聞かせる』ああ俺はこんなことを本当は言ったことが無いのに、その時には俺は父親を宥めることに成功していたのだ。気が付くと冷や汗をかいている俺のこの腕にも誰かの腕が置かれていた…ちょうどさっき俺自身が父親の腕に腕を置いたみたいな感じに…俺ははっとして振り向くと、すごくよく知っているはずなのに知らない誰かが必死で俺を勇気づけようとしてくれていた。その人は灰色の瞳を見開いて頷き、その人自身もまた内心狼狽えているのがわかった。その人を鼓舞させるためにか、その人の腕にもさらに見知らぬ誰かが腕をそっと置いており、その見知らぬ誰かすらもそのまた見知らぬ誰かが後ろから、味方だよと言いたげに腕に触れているのだった。…鏡を合わせた影のように連なる永遠の輪、永久に繋がる遺伝子の輪、時空間や時系列を飛び越えた同時進行の遺伝子の輪、その人たち自身は何処に居るのだろうと俺はぼんやりと考えながらも自分自身の状況を直視するために父親と、不吉な笑みを浮かべてこちらと対峙する男たちを見る。そして男たちに促されるまま目の前の車に乗り込むと、団地を抜けて雑木林に連れて行かれ、降りたところに妹と母親の死体がうつぶせに土の上に投げ捨てられているのが見えた。父親が後ろで絶叫するのが聞こえる。
ああそうだったのか全てわかったよ、父親にとっての根源的な恐怖の光景、これが現実か否かはともかくこれこそが父親の抱く恐怖そのものだったのだ。心情だったのだ。それでも日常的に思い起こされるこの情景故に『あの頃の父さんは始終あんなにピリピリしていたのか』でもさ、俺は改めてわなないて震えている父親の腕をがしっと掴む。『大丈夫だよ父さん、大丈夫わかってもらえる、俺が奴らに言い聞かせる、これは遺伝子の見せる悪夢でしかないんだ、緊急事態に対応せよっていう信号が遺伝子に組み込まれているだけなんだ、確かにどこかでこういったことが俺たちの血筋上実際に起きたのだと思う、あるいはもしかすると果てしない未来に惨劇が起きるのかもしれない、その予感なのかもしれない、だけど大丈夫、俺がそうはさせないように動くから、この人生ではもう悪夢から目覚めたって罰は当たらないさ』
俺の後ろにも誰かいて、そのまた後ろにも誰かがついていてくれる。それはきっと彼の果てしない故郷である氷だらけの異邦人の地まで続いているに違いない。父親の観ていた心像をどうして俺が見たのかもこれでわかるだろう…そうだよこれが遺伝子の輪…いつのまにか団地の入口に戻ってきているがもう子供の笑い声しか聞こえてこない。ここが最早モスクワなのか立川なのかも曖昧なまま、実際には起きなかった現象を胸に抱いたまま、これもまた実際には生じなかった邂逅を確かに感じつつ、この地点に於いて遺伝子が変容するのを確かに感じ、受け入れた。父親と俺は静かに、悪夢の外側にちゃんと存在している母親と妹の待つ部屋へと帰路についた。