散文詩【汝の敵を愛せ】

俺に言わせれば汝の敵を愛せってのは、憎しみと愛着が入り混じって「仕方ねえなあ」って台詞に込められているときのような感じだ。
これをもっと突き詰めて、それを冷静に言えるようになったときにはじめて、一個人として汝の敵を愛することが実践可能になるんじゃないかと考えている。
けどまあこの、仕方ねえなあってのは、あくまで自分の信じた場所に光り輝く意味で発せねばならない。
もちろん、愛の実践はやらぬ善よりやる偽善で、糞くらえだって思いながら、投げやりに仕方ねえなって呟きながら赤の他人のエロビデオを片付けてやったり、どっかの馬鹿犬のウンコの始末をしてやったり、そういう下らない事に俺みたいな凡俗は、仕方ねえなあって対処していくしかねえんだ。
かく言う俺自身が役立たずのどうしようもない人間だ、それなのに女が止められない仕方のない野郎だ。
大体、世の中は仕方のない事だらけだ、菌類や動植物やら人間に至るまで何から何まで、そのすべての存在には何かが欠けているもんだから、いつまでたっても神の国は完成しやしない。
神様の造りたもうた生命の定義は欠落と補填とそれが為の動きそのものだから、どうしたって全体全部が仕方ない仕組みになっちまう。
ああ、涙の谷に我らは住み、御国は未だ到来せずと今日も嘆く…
でもそれに対して無視とか黙認じゃなくて出来る範囲で信じる光に従って、攻撃でも反撃でもなくただ単に対処してくのが汝の敵を愛せよと命ずるところの愛の実践なんだ。
イエスキリストだってその延長線上で命を落としたんだから些細な愛の実践すら馬鹿にしないほうが身のためだ。
かといってファリサイ派の保守的連中みたいに何かにつけて聖書の引用句を恭しく言って見せ、これに従わないあなたは間違っているなんて言っているようじゃ、まず汝の敵は愛せない、そういう連中の事は本当に、仕方ねえなあって思うよ。