散文詩【現代の潜伏キリシタン】

十字架を拝めないという理由で彼女はロザリオから銀製の十字架部分を取り外し、代わりに聖母マリアのメダイをつけた。
ほんの一瞬春の陽光にそれを透かすように掲げてから素早く胸に押し当てると小さく呟くのが聞こえた。
『マリア様お許しください』
聖母マリアは未信徒であっても崇敬することを許されている。
聖マリアの汚れなき御心よ今も臨終のときも祈り給え…そう書かれた緑のスカプラリオを彼女はいつも肌身離さず持っている。
信徒でなくとも祈りの許されている対象は正式には、不思議のメダイとこのスカプラリオだけだ。
でも真実には十字架は全ての民に開かれているし、第一、十字架を拝むというのは祈りとはちょっと違う。
拝んでいるわけじゃないから気にしないで十字架をつけていてもいい、それで誰かに罰せられたりなんかしない、そう言おうとしたが本当の意味で、主観的な意味では、認めにくいが確かに拝んでいると言えるかもしれないのでこっちも黙っていた。
掲げたりそこに念を見出す対象は世界に幾通りもある。
図像学的に心理的全肯定を示す丸型で表される聖母マリアのほうが彼女の祈りには丁度良いのかもしれない。
十字架は私の周りの人にとって異端の物だからと彼女は…まるで子供のように黒い瞳でこちらに囁いて目配せをし、聖母マリアのメダイをさっと左右に揺らせてにこっとした。
ある区分を信じたらその他を信じないで居ること。
それはまるである男と寝たら他の男とは寝ない事に似ている。
貞節や一つの宗派を信じることを…それでも一途さを無駄だとか無知だとか無意味だとか言えないのは、そこにさえ、ひとつのの真実が宿っているからだ。
果たして彼女は裏切り者なのだろうか?
自分の周りの人を欺いて十字架に寄り縋っている罪の女なのだろうか?
たとえそうであったにせよ…大丈夫、確かなのは聖母マリアという概念的存在は確かにそれを許しているということだけだ。
そういう意味で彼女の行為は実に合理的でさえある。
祈ることをどうかお許しくださいと祈る現代の潜伏キリシタンであるところの彼女の小さな声が、未信徒の祈りが、信徒たちの声に混ざって聖母マリアの腕の中を揺蕩っていた。