散文詩【遺伝子の声】

俺が親から受け取った先祖の一覧表には、何親等かの、彼らの知り得るだけのメッセージが一人一人の人物に対し注釈として事細かに書かれていた。その中には修道士として日本へやって来たのにいつのまにか子供をこさえてしまった間抜けな白人男や、信州の山奥にずっと居た寡黙な人たち、はたまた由緒正しいが明治維新で食い扶持を無くした長身の加賀藩士、後に車椅子になる古町のデパート娘、流れてやってきた上方の染物屋の旦那、呉から出兵して戦中ずっと若い女性兵士と英会話ごっこを楽しんだ気ままな捕虜兵と、運動神経抜群の世界史上最後の騎兵隊、幼少期だけは社長令嬢として過ごした奔放な娘…等々諸々の人々がこの俺の中にどっと混ざって犇めいていることが示されていた。

血筋というものを厳密に調べたらたぶんあっと言う間に地球を一周してしまうのだろう。

だってそうじゃないか、俺が聖書を何故か懐かしいと感じるのは情欲に負けた修道士のせいだし、俺が寡黙なのは長年山奥に暮らしたからで、江戸時代の話を聞いていつも馬鹿にされがちな田舎侍というキーワードに肩入れしたくなるのは加賀藩士の影響だろうし、新潟のデパートに特段ときめかないのはそこに通勤した遺伝的思い出があるからに違いない、俺が関西風の出汁の味やたこやきを妙に恋しがるのは染物家業の京男のもたらす欲求だろうし、戦争といっても何故か真に迫らないのは祖父たちが、方や南方でイギリスの女性士官に見とれる優雅な捕虜生活、方や輝かしい騎馬部隊で馬と一緒に帰国する経験しかなかったからで、成金の金持ちに対して何か哀れさを感じるのは母親が家屋敷をヤクザに取られ…必死こいて取り返したからだろ。

こうして先祖という、俗に有難がられるものを並べてみると皆何処か滑稽だと俺は思った。ちなみに母方では先祖を特段敬わない、そんな奇異な風習があるがそれも今は頷ける。と同時に、彼らがまだ生きていて、血の中に確かに生きていて、先天的要因の決定権を大いに握っているらしいことも感じられる。叶わなかった恋、叶ってしまった荒稼ぎ、いつの間にか生まれている子供、でも俺は言いたい、日常の率直な感じ方は彼らから来るところも大きいがそれでも、これからを決めるのはこの俺なんだ。俺は日蓮大聖人と禅宗の思想や聖母マリアやともするとクルアーンや正当なるユダヤのラビの言葉が混ざり合うその場所をもう知っている。

人間ってのは自分で思うよりも木のように繋がってるんだ、何処かの民族や国境でぶちっと区切る事なんか出来やしないって事を、本当は誰だってわかってる、一覧表になってしまった先祖たちは優劣無く生命空間を漂っている。

生きている頃は武士か町人か農民かなんてことで、個人のもたらす影響力ってのが絶対だと思い込んでいたのだろうけれどそんなものは幻想だ、幻想、なんだけれども実に…決定権を握っているのは個人だ。残念なのはこの中で絵を描いていた奴も文章を書いていた奴も吟じたり歌っていた奴も居ないってこと。先祖を否定したいわけじゃないけれど…だから俺は何親等かのうち誰もやらなかったことをやる、今日も歌う、今日も描く、今日も書いて今日も…先祖がしてきたみたいにとりあえず働いて、でも、今日も善行をしている人を労う、たった一言でいいからご苦労様と言うか休みの日の小一時間にゴミ拾いをする。ちなみに先祖の逸話で一番好きなのは地道に成り上がった祖父が当時の三種の神器を地域の中で真っ先に買い揃え、近所の人を呼んでテレビを一緒に見たり、安いアパートをこさえて生活に窮した人を住まわせていたってこと。個人個人がどんな利点を持っていたか…運動神経や商才とか美貌、そういったことは過ぎてしまえば消え去るし、一覧表になってしまえば皆同一の力しかもっていなかったことがわかる、個人の優劣なんてあるようでないんだ、でも確実に…人間の到達点ってものに引き寄せられていることの分かる行為っていうのはあって、それこそが世に善行と呼ばれる類のものだ…ああ、100年でたったこれだけ。数世代かけてたったこれだけ、俺らの血筋の到達点を要約すると当時珍しかったテレビを解放したってことと幾らかの人の生活を助けたことと、ゴミ拾いとそれに対する労い。たったこれだけしか残らないんだ、でもいい、それでいい、誰もが自分の体内に先祖の声を持ってて、それは木の葉みたいに風にそよいで輝いている、すべては繋がっている、だから個人が終わっても生命全体は進むのだと。