真夜中二時の美術大学に僕は今、忍び込んでいる。
大丈夫、授業の後、あの窓を空けておいたから、僕は荷物を背負って校舎の裏側に回り、そこから二階の制作室までよじ登る。
自転車置き場を足場にすればすぐに、生徒の一人である僕の制作場所まで辿り着く。
肩に背負った袋の中には木材や、それを留めるための金具、見たこともないような鉄の何か。
途中、道すがらの工事現場に寄って調達してきた品々だから、それらが成すべき用途は素人の僕には不明だ…しかし、この愛すべき材料たちに「本来成すべき用途」が本当に在るのだとしたら…それは僕の作品に成るとういことだ、そうだろう?
これは悪事ではないと僕は言う、やっぱりどこか罪悪感に苛まれている妙な部分もあって、汗が出ている、それでも尚僕はこの調達を止めない。
だってその材料たちに聞いてごらんよ、ただ漫然と、年度末までだらだらと引き延ばされる工事のために自らの存在を賭けるのか、それとも僕の作品…芸術の命の一部になりたいのか、どちらが物質としての存在意義を満たすのか、小一時間問い詰めたらいい、きっと僕の正しさが証明されるから。
真夜中三時からが僕の本番の時間、儀式の時間だ。
作品を作るために物を買うなんてナンセンスだ、売っている物は既に作られた物だ、つまり、作品を作るために「作られた物」を買うなんてナンセンスだと僕は言いたい。
作品を作るのに「指示された」通りに作品を作るのもナンセンスだ、つまり、自分の作品を作るつもりが、それでは「教授たちの」疑似作品が出来上がるに過ぎないと僕は言いたい、作るのなら徹底して僕自身の作品を作りたいと僕は言いたい。
美大ってその為の場所だろう?
だからこれは決して授業をボイコットしているのではないと僕は言いたい、それでもやっぱりどこか緊張して意地になっている部分もあって僕は少し汗をかいている。
油彩の時間に立体制作などして、あの教授、単位をくれるだろうか?
よし、窓は開いている、辿り着いた。
窓から差す月光は消えかかっている、制作場所があるってなんて嬉しい事なんだろう。
椅子は僕が昨日動かした時のままだ…と言いたいが、何か歪んでいる気がする。
人が居ない分空間が広がっているような…それも果てしなく広がっていて、どこか別の時間に繋がっているような…いかんいかん、すぐに取りかからねば。
僕は調達してきた材料たちの荷ほどきにかかった。
工事現場で○○したものたちは木々を留めるのにぴったりだ、しかし変てこな金具だけはとうとう使い道がなかった、大丈夫、次の作品で使ってやるから安心しな。
そして多摩川上流で拾った流木、石、枯れ葉、僕は縄文人のようだな、こういう物が素晴らしく煌めいて見えるんだから。
…そしてこれ、赤い、何かの骨、結構大きめ。
まさか人骨?
もしそうだったら…僕は赤い骨を握りしめた、ちょっと暖かい。
赤い骨の長さは大腿骨くらい、何かの大腿骨、何故赤いのか、病気か何かか?
…と思った途端、少し気持ち悪くなったがそれでも僕は骨を握ったまま座して居た。
何にせよ、この赤い骨が僕の手に在るということは、こいつは僕の作品に成るべくして生じているのだ、死が作品として昇華する、素晴らしいじゃないか。
目の前に降りてきた旋律の通りに僕は手を動かし、そこに確かに在る死としての流木が、生きて蠢いているかのように強弱をつけながら、束ねた。
束ねた間から先ほどの赤い骨を食い込ませた、これが人骨だったらいいなと僕は思った、僕はこんな風に死にたいと思った。
この作品は死がテーマだが、僕はまだ二十代前半、僕自身の死は僕からは見えない。
僕の死は何だろうか、バイク事故?タバコの吸いすぎで肺がん?わからない、全くわからない。
…あ、赤い骨が転がった、留めておいたのにこいつは、帰りたいのだろうか。
…?…歌?
僕はあたりを見回したが、人の気配は無かった、それでも僕は何かが僕に呼応を求めているのを感じた、その呼応を信じた、そして制作した。
午前四時、僕は少し手を止めていた、このまま授業が始まるまでここに居ても大して問題が無いことはわかっていた。
しかし5時から7時くらいまでどこかで仮眠を取りたい。
ふと、彼女の部屋が浮かんだ。
彼女は当然こんな時間には眠っているだろう、絵の具臭いあの部屋の中で、絵の具の匂いと女の子の匂い、そして食べ物の匂い、つまり全ての匂いが詰まったあの部屋の中で彼女は眠っている。
ああなんだか勃起してきた、けれど、さっきから誰かが僕を呼んでいる気がして鬱陶しい、鬱陶しいのに…何よりも僕が求めている事のような気がしてしまう。
こんな「おかしい時間」に起きて歌っているような人間…特にそれが女なら、さすがの僕も御免被る。
彼女は…あいつは、普通の時間を普通に生きている人間だから僕は一緒に居て安心するんだ、あいつに対しては…初めての男として、抱いてしまった責任もある。
僕と同じように工事現場で○○をし、材料を手に入れ、夜中の大学に忍び込んで一人きりでハイになって制作するような女とは付き合いたくもない…でも…。
この大学にはもっとそういう奴らがウヨウヨしているのかと思いきや、皆、意外なほど規則正しく真面目で、普通、だった、女の子たちは普通に可愛い子ばかりで僕は…実は少し残念だった。
怖いもの見たさという言葉しか当てはまるものが無くて、僕はもどかしくなった。
変な女と真夜中の大学でセックスしたいわけじゃない、制作に文字通り全身全霊を捧げているタイプの女とはその実、付き合いたくもない、結婚なんてさらに嫌だ。
…でももっと、自ら進んでかっこ悪い事をしでかすような男女が…要するに変人がわんさかいるのが美大だと僕は思っていて、その予想が外れて…僕はがっかりしていた。
皆、授業で言われたことは言われたとおりにこなしていた。
油彩と言われたら油彩、モチーフは花と言われれば花を描いた。
職業アーティストになるというのならそれでいい、言われた通りに美を仕上げる、そして自分の美を高めてゆく、実際その根性が無ければアーティストを生業にすることは不可能だった。
それは僕にも痛いほどわかっていた。
それでも何かが欠けている気がした。
そして僕は入学してほどなく決意した、変人が居ないのなら自らが変人に成れば良い、何かが欠けているならば自らがその欠けた何かに成ればいい。
ただ残念がって、誰かが何かを成し得てくれるのを待って、欠けたままの空間を指をくわえて見えているだけなんてのは、一番情けない事だ、アーティストが受け身でどうする!…僕は自分をそう叱咤激励して過ごした。
僕は、僕以外にこの大学に、誰も真夜中の制作をしに来ないのを寂しく思った。
セックスしに来ている連中はいるかもしれない、でも純粋に制作の喜びを感じるには、太陽の気配だけが秘かに充満するこの時間が何よりだった、それなのに誰も居なかった。
夜明け前のこの時間が一番芸術の勘が冴える時間なのに、教授たちも惰眠を貪っているのだろう、学友たちもこの神秘の時間を無視している。
午後なんてのはもう制作には不向きで、昼寝をしたほうがよほどいいのに…誰か来ていればその人と話がしたいと僕は思った。
僕は夜明け前を飛ぶ白い鶴、僕は一人そう口ずさみ、何かを補った、欠けた何かを僕は補うのに必死だった。
午前5時、空が明るくなってきてしまった、どうしてこうも残念なのだろう。
何処かで、何処かの時代のこの時間、あるいはこの時代、あるいは別の時空間で、僕と同じように制作に励んでいる誰かを僕は心の何処かで切望していた。
変人、病人、呼び方は何でもいい、少なくともこの大学には僕の作品を見て泣ける奴は居ないだろう。
僕は窓を開けた、愛すべき材料たちはそのままに置いておいた、また午前中に僕はここに来て制作をする。
けれど、僕はやっぱりこの時間が好きだ。
僕は赤い骨を拾うとリュックサックの中に入れた、骨は何度も僕の作品から逃れようとしていたので、もっと強力な接着剤を買おうと僕は目論んだ。
僕は窓から静かに降りた。
朝靄の中、彼女の住む部屋には「通常の朝5時あるいは6時」が訪れようとしている。
僕は通常の時間に居る彼女を見てほっとするのだろう。
そして僕は起き抜けの彼女にキスをする、彼女は「普通の時間に制作しなよ、拾った骨なんて気持ち悪いよ」と助言を与えてくる、僕は無視して彼女を抱き、彼女はそれを受け入れる。
僕は一人、仮眠を取るために赤い骨と歩き出した。