ショートショート【僕は夜の浜辺で電話帳を燃やしていた】

僕は夜の浜辺で電話帳を燃やしていた、バイクは道路の脇に停めてある、地元の浜辺には今、僕一人しか居ない、夏場はここに幽霊が出るという理由で人が探索しに来たりもするけど冷え冷えとした夜には幽霊を含めて誰も来ない。
季節はもう晩秋なのに潮風は生ぬるく湿っている、海は女みたいだと僕は思った、僕はさっき女の子と寝てきた…女という生き物と生まれて初めて寝た。
あの子の指がまだ僕を這っている気がして僕は何だかそわそわした、あの子の年上の彼氏が僕を殴りに来るんじゃないか?あの子と寝たことが予備校の皆にばれるだろうか…僕は息を潜めた…わかっていた、僕が童貞を捨てたこと位で世界は動いたりしない、何度射精してもあの子は動じない。

真夜中でも電話ボックスには小さな灯りが点いている、電話帳の文字列を僕は見てやるせない気持ちになる。
固有名詞、誰それ、何々、云々、そして電話番号、数列すら意味を成すということ…実のところ相手と通話しても、電話帳に記載された大半とは挨拶は出来ても、意味のある会話などにはならない。
これは反社会的な行為だろうか、ある種の欲求不満だろうか?

僕は文字から意味を消したい。
僕の名前も、あの子の名前も、あの子の彼氏の名前も元彼の名前も、あの子のヤッてきた全ての男の名前も、予備校や、これから目指す美大の名前も、所属しているという概念から僕は解放されたい、そして全てを開放したい、無意味なものの中にこそ真実は在るのだ…ただの嫉妬だろうか?
電話帳はめらめらと燃えていた、煙に混じって黒い灰が飛んで来たので僕は口元を押えた、炎は宙を舐め上げるように上へ上へと舌を伸ばしている。

信じられない話だけど、高校の頃は男子皆でオナニーしたなあ、僕らのクラスの男子は仲が良くて、よく誰かの家に集まっては一緒にAVを観ていた。
今思うとおかしな話だけれど、人前で抜くという事も慣れてしまえば何てことはなかった、コンドームの付け方を教え合ったりしている最中に僕のあだ名はボンレスになった。
ゴムがペニスに食い込んでボンレスハムみたいに見えたという理由からだ、そんなわけで僕は教室で男子生徒からボンレスと呼ばれる度に何処か優越感を覚えながらにやにやしていた、女子にはこういった男共の事情はぼんやりとしか見えない、男には男の世界が在るのだ。
…僕はあの世界を楽しんでいたし、今も心底懐かしんでいる。

海から何かの声がした、本当に幽霊が出るのだろうか?電話帳の火は消えかけている、僕は世界を壊したい、文字というものから意味を取り去りたい。
書道をやるときのあの感じ、墨汁の海に浸された小さな筆、意味の在る事象…文字から意味が消えたらそれは全て絵となる、その実世界は絵で出来ているのだ。
僕に彼女が出来ていたら僕はそれを男友達の誰かに言うだろう、俺今日ヤッたよ!って誰かに言ったろう。

実際には僕は「あの子が手を出した男のうちの一人」だった、わかってる、あの子の彼氏に知られたらぶん殴られるとかそういう事以上に…人に言うべき自慢要素が何一つ無かった、だからペニスがボンレスである僕は未だに浜辺に一人で居る、砂がスニーカーの中まで入り込んでくるのをただじっと耐えている。
あの子の薄い陰毛は海藻みたいだった、身体を舐め合って、あの子に誘導されるままに唾液やら汗やら精液やらで僕とあの子は独特に汚れていた、汚れることこそが快楽なのかも知れない、醜くなることこそが快楽なのかも知れない、互いにゴミになること、互いに死ぬこと…でも死んだ後には幽霊になるだろ?

幽霊になっても見つめ合えるのだったら僕はあの子を好きだと堂々と言えたはずだ、あの子は、たまには他の味も食べたくなったんだろうな、あの子を好きか?
…確かに好きだ、明るいし予備校の中では一番可愛いし好きだ、でも残念ながらあの子は僕を大して好きじゃない、嫌いじゃない程度には好きで、それ以上にただ欲しかっただけ。
あのバンドのヴォーカルみたいな子なんだよあの子は、ほんのちょっとだけ似ている…かなりちょっとだけ、いや、実はそんな似ている要素ないかもしれない。
その場に居ると明るくて自発的で…ああ僕って本当にああいう子が好きなんだなあ、彼女が欲しい、いや、あのヴォーカルに会いたい。
自分で何か作り出せるような女の子が好きなんだきっと、いや、居室の片隅で暗い顔してノートに絵を描いているような気味悪い女じゃなくてさ、明るくて可愛くて、どこか独特な女の子に僕は出会いたい。

…東京に行ったらそういう子が居るのだろうか?あのヴォーカルみたいな子は居るのだろうか?
…あの美大へ行ったらそういう子が居るのだろうか?そういう子と、僕は出会えるのだろうか?

海から声がする、やっぱり海から声がする、僕は理想の女の子というほのかな桃色の幻想から抜け出て立ち上がろうとした、燃やした電話帳は既に浜辺で黒い屑と化していた。
意味は消えたのだ…本当に消えたのだろうか?その時だった、あまりにはっきりと唐突に、低い女の声が僕に問いかけた。
「ねえ君、それってもうゴミ?」
僕は反射的に飛び上がった、目の前に薄手のパーカー姿の女が立っていた…顔は見えなかった、とにかく見えなかった、つまり女の影がそこに居て、僕に話しかけてきていた。
僕は声が出なかった、僕は頷こうとしたが身体が動かなかった、幽霊だ…幽霊は居たのだ。
「ゴミなら拾いたいの、私は私の場所を綺麗にしたいの」
…いや、本当に海の霊だろうか?自然の霊?ゴミ拾いの生き霊?…どこか時空間を隔てて見える誰かという気もした、実体は無いようだが女の影は生きているような感じもした。

女の影を見てどうして服装までわかったのか僕には説明し難い、それなのに顔がまるで見えなかった、女の影は身をかがめて電話帳の燃えかすを袋に詰め込み始めた。
果たして袋にゴミと化した電話帳が入っているのかどうかも僕には判別がつかなかった。
…意味を消失したものはゴミなのだろうか?
…ゴミと宝物の差は、意味、ただそれだけだろうか?
…ゴミ拾いというのは善行という意味が付随するのだろうか、ゴミを捨てた僕は悪行をしたということだろうか?もしそういった意味が付随しないのであればそれは…

「そうねえ」
驚くべき事に呼吸すらしにくい僕の思考を女の影は読んだらしい。
「ゴミ拾いっていうのはね、ナンパみたいなものよ」
ひひっという女の引き笑いだけが真夜中の浜辺の、僕の四方に谺し、僕はいよいよ震えた。
「知り合いの男にね、綺麗な駅や街中で女を見かけたら声をかけるってことをやってた人が居てね」
女の言葉は異様に明確に僕の耳に届いたが、要所要所で女が一人笑いする度に、その笑い声だけはあやふやに響いた、僕はやはり罰が当たったのだろうか。
「それと一緒よ、ゴミを見つけたら拾わないとむずむずするのよ今の私は…もしかするとね、この地域の誰か、ゴミ拾いを習慣にしていた誰かが何らかの理由でそれを出来なくなったのかも知れないわ、だから私が地域の力に呼ばれてやっているのかもしれないわね」
女の深いため息が僕の顔の正面に吹きかけられた、あの子とキスをした唇に正体不明の女の影が重なったような気がして気が萎えた。
「人間には名前なんて無いのよ、誰でもいいの、手が空いていたら手の空いた誰かがやればいいの、ゴミ拾いもナンパにも何の意味も無いのよ、世界を循環させる働きというだけ」

…無意味な行為…
…電話帳を浜辺で焼くというのも無意味で、電話帳が電話ボックスに在る事すら本来無意味で、ゴミと化した電話帳を清掃するのも善行ですらない…
…そのナンパ男はともかくあなたは、意味の無い世界に居て辛くないの?
…だって結局僕は、意味や固有名詞を消失させるということ、無意味にさせるというインスタレーション自体に意味を見いだしていて…

いつの間にか女の影は消えていた、僕はまた笑い声がするのではないかと冷や冷やして辺りを見回した。
空だけが漆黒から深い青へと変化していた、夏は海に太陽が昇るのを楽しむことが出来るけれど、季節がずれてしまうと朝は空から訪れるものになるのだ。
僕は立ち上がり、電話帳の燃えかすを見た、確かにゴミだった、僕は世界をゴミにしたいのだろうか?
…あるいは元々、世界はゴミなのだろうか?…
つまり世界は、宝なのだろうか?

僕は「それ」に気付き思わず悲鳴をあげた、声が出る事自体にどこか歓喜しつつも僕は怖気立った。
電話帳の黒い燃えかすが大量の手形となって僕の座して居た四方を埋め尽くしていたのだ。
僕は残りの燃えかすをほっぽり出して急いでバイクまで避難した。
「ヤリマンでもいい、今はやっぱり明るい子に会いたい…暗い女の笑い声なんてうんざりだ」
僕の呟きは白い吐息となって朝の浜辺に舞い降りていった、童貞を捨てた話は誰にも出来ないが、この幽霊話を誰かにしようと僕はどこか嬉しい気持ちで、バイクに跨がったのだった。