ショートショート【死後空港】

「死後空港」は広大だった。

女は意識が遠のいてからの日数を覚えておらず、気がついたらこの空港へ来ていた。
自分の肉体が、あの趣味の良い静かな家の中で腐敗し、破裂し、どこからともなく小さな虫たちが湧き出でて、彼等の新たな王国の苗床になっていることなど女にとってはもう些末な事柄だった。

はじめのうち女は自分がいつのまにやら空港に来ていること、股関節も痛まないこと、何やら若くなっているらしいこと等を訝しがっていた。
「すみません、ここはどこでしょうか?」
通りすがる人々に尋ねてはみるものの、返ってくる答えはどこか皮肉っぽい微笑みだけだった。
女は手荷物めいたものを持っていた。
パスポート、数本の油性ペン、キャンバス、アクリル絵の具、そして昔拾って…確かに捨て去ったはずの…貝殻や、母親からもらったイヤリング、鳩が葉を咥えた模様の銀のコイン…それらを、これまた似合わないからと使わずに捨てたはずの綺麗なスカーフに包んで、女は後生大事に持っていた。

空港の天井はガラスになっており高い場所の白い骨組みはそのまま見えていた、そこには無数の鳩が何かを咥えてとまっていた。
鳩たちは天井から降り注ぐ日光を浴びて日がな一日まどろんでいるようだった。
時折、誰かの頭の辺りへ飛んでいって草らしきものを咥えてまた飛び去っていった。
鳩たちは皆一様に、記憶の鳩と呼ばれていた。

「記憶の鳩につつかれると記憶を無くすぞ」
と言って怖がる人もあれば、自ら進んで鳩に…鳥葬のように…記憶を持って行かせる人も居た。
彼等の言い分は「目が覚めたときに昔の雑事を覚えてるなんておぞましい」ということだった、確かに一理あると女は思った。

記憶の混乱が生じたり、女のように前後不覚のままここへ辿り着いた魂は女も含め、インフォメーション受付へと押し寄せた。
受付に至るまでの列は長く、しかし女はどこかへ旅をする感覚を一心に味わいながら待っていた。
受付には数十名の人物が横並びに並んで座って居た、一人一人に名札があり、「ミスターM」と記されている優しげな眼鏡の男に女は当たった。

「あの…M氏…と、おっしゃいますのね…あの、ここは、天国なのでしょうか?」
「いえ、ここは死後空港と言います、あなたの肉体は死んだのです、魂が次の転生先を選ぶ場所ですよ、あなたの希望する行き先はありますか?」
「ええと…恥ずかしながら私、大半の事は忘れてしまいましたの、でも…好きな人が居たことは覚えています、彼にまた会いたいんです」
「まだ記憶の鳩に芽をつつかれていないようですね、ではあなたの想い人の行き先はわかりますか?」

女は何か引っ掛かる気持ちを感じながら言った、「たしかポリネシア諸島だと思います」、その言葉を言い終わるやいなや女は顔を手で覆った。
恥ずかしい思い出が女の頬を赤らめさせた、女はたじろぎながら言った。
「…何かの相談をその人にしたんです、何の相談かは忘れました、でもその人が…ポリネシアには性を本当に一対一で教育する制度があると言ったんです、ええ、なんでそんなこと言ったのかはわかりません」
「いいですよ、続けてください」
M氏はPC画面で女には計り知れない物事を調べている様子だった、それには女の記憶が必要らしかった。

「…あの人のあの時の顔…頬に、まさに、ポリネシア行きたい!って、書いてあったんです…だからポリネシア諸島に転生なさるのかな…って」
M氏は屈託なく笑った、「あなたはあなたの想い人に性の技巧を教えたい、ということでよろしいでしょうか?…でも困りましたね…」、M氏は画面を見て渋い顔になった。
「ポリネシアの性教育申し込みが殺到しておりまして…教える側も教わる側も」
「私の入る枠は、もう無いのでしょうか…」
「そもそも、ポリネシア、諸島、ですので…その方がポリネシアのどの島へ転生なさるのか見当はつきますか?」

女は愕然とした、そんな事がわかるはずも無かった。
「その人の事で覚えていることは詩と、旋律の無い音楽、静かな気配、微笑み…それをあなたにどう伝えたら良いのか…」

さらに調べるうち、女には手持ちの金が無いという事実が発覚した。
「旅費が無い場合、カルマを計ります…でもあなたはカルマも未消化です…」
M氏は時計を見た、彼の休憩時間になったらしい、M氏は意外にも女を誘って展望台へ歩いた。

展望台は屋外へも続いていたが、二人は展望台のわきに併設されたカフェテリアへ入った。
M氏はそのままカウンターの奥へ行くとお湯を沸かし、女にコーヒーを淹れてくれた。
「仕事の合間にこうして自分でコーヒーを淹れるんですよ、僕はね、次に転生したら喫茶店をやりたいんです、それだけが僕の覚えている事なんです」
M氏のコーヒーはすっと喉へ落ちていった、女は妙に懐かしい気持ちになった。
「喫茶店をやるには僕も、カルマが未消化で、旅費が足りないんです、だからこうして働いているんですよ、この死後空港で」

M氏の計らいで女は死後空港の掃除婦として働くことになった、そこで旅費を稼ぎカルマをなるべく消化し、転生を楽にするという目的だった。
女の最後の記憶、「好きな人と話がしたい」、これを記憶の鳩につつかれ、持って行かれないように女は頭巾を被って仕事に取り組んだ。
毎日肉体を持たない人々の群れが空港に思考の澱を残していったが、女は踊るようにその澱を掃き出し、小さく歌っていた。
その歌を聴く人がごく稀に現れたが、すぐに去っていった、彼等もまた転生するのだ。

死後空港の展望台に夕日が落ち、カフェテリアがオレンジ色に染まった、女が死後空港の掃除婦をはじめてから数十年が経過していた。
…もっとも、そのような時間軸はさほど機能していなかった、過去へ飛ぶ飛行機もあったからだ。
しかし女を含め、大半の魂の手持ちの旅費はたかが知れていて、過去行き、または時間を飛び越えた未来行きの飛行機に乗るものはごく一部に過ぎなかった。

女はM氏に度々相談した、M氏はその都度快く女を世話した。
「僕は喫茶店をやりたいって事しか覚えてないけれど…君を保護したくなるよ、ねえ、僕らは親子だったんじゃないのかな?」
「そうかもしれない、あなたは私の父さんかもしれない…来世どこかであっても、私たち、くっつかないほうがいいわね」
M氏は少し寂しげな顔をしながら言った。

「そうだね…知ってる?梟は目が悪くて、実の親とつがいになってしまうことがあるらしい、子供もなかなか産まれない、でも情はあって別れられない…それで梟は減少しているんだってね」
女は、彼の眼鏡、彫りの深い顔を改めてまじまじと見た…確かに女はM氏の事をよく見ていなかったのだ。

「私たち前世は梟の親子だったのかしらね」
それが何故ここまでの苦しさに繋がるのか理解できないまま、女は嗚咽を漏らし、女の涙がコーヒーカップの中へと滴り落ちた。

ついに女の出立の日が来た、「彼、ポリネシア地域のこの島で医師をやっているみたいだよ」、M氏は女の想い人をどうやってか探しあててくれていた。
「私あなたにどうやって恩返ししたらいいのかわからない」、M氏は笑っていた。
「恩は、僕に直接返さなくても、君の行いがどこかで僕に繋がっているんだよ、僕も君のお陰でだいぶ旅費が貯まったんだ、そうそう」
M氏は続けた。
「もし何か困ったことがあったら…僕ももうすぐ転生するから、また呼んでくれて構わないよ」
しかし女は言った。
「…やめておくわ…私前にもきっと…梟だったときかもしれないけれど、あなたを呼んでしまった気がするの…やめておくわ」

女は仕事着や頭巾を脱ぎ捨て、私服に(といっても数十年前の古着に)着替え、羽織ったコートのポケットの中にある銀のコインを握りしめた。
条例に基づき、手荷物は一つだけ許されていた。
たった一つの記憶の欠片だけ、転生先に持って行けるのだった。
…ただ、女自身は鳩が葉を咥えている絵柄のこの銀のコインが何だったのかを、もう忘れ果てていた。
しかし好きな人の事だけは、頭巾を被りながら仕事をした甲斐あって、鳩につつかれずに居たので覚えていた。

M氏に別れを告げ女は歩いた。
出国ゲートを出れば好きに移動してよいとのことだった、女はポリネシア諸島行きの飛行機を探した。
死後空港には数十年居たが、搭乗口まで来たのはこれが初めてのことだった。
既に数十歳の年齢差が生じている事は百も承知だった。
性の技巧を教えたり教わったりする時期をとうに逃していることも承知だった。
彼にただ会いに行くのだと女は思った、飛行機の座席に身を沈めながら、そこでまたしても妙な懐かしさを覚えた。

「あの人とまた話がしたい」

魂のフライトが、始まろうとしていた。