ネット黎明期の思い出

モデムの音を覚えている。
ダイヤルアップ式のモデムだ、それは白い箱形のPC画面の上に鎮座していて、ネットに繋がるまでの時間を赤い音を奏でて、こちらの気持ちを高ぶらせてくれる。

「ネットに繋ぐぞ」

旅行に行くときのあの空気を感じた、別の概念の場所、別の国へ行くときの高揚感が詰まっていた。
うまくゆかないときも多々あった、回線が安定しない、その度にダイヤルアップ式モデムが赤く光って回転するのを見ていた。
いざネットに繋いでも、インターネットエクスプローラの初期画面から、その次のページへ行くまでの移動、移動、移動…
自分はここに座しているのに、気持ちの上での移動、概念の上でのあの場所、次の場所、次のページ…
それが果てしない挑戦のように思えた、次の思考への移動は勇気が要る、なかなか次の世界へは進めないのだ。

「ねえ、これってさ、お母さんの祈ってるあの、仏壇の中の、命の源、という意味の書かれた…ご本尊みたいだね」

概念上の「行きたい場所」、それに触れることも、実際に三次元上に立ち現れることもできないあの言葉。

それは各家庭の仏壇の中に安置され、仏壇を開いてそこに心を立ち向かわせることによって、言葉の表す生命の源、全ての故郷と対面できるあの現象。
まるで、PCを立ち上げ、モデムが勤行を唱えあげ、そしてネットという概念の場所にアクセスが可能となったときに、自分が、自分の思考までもが更新されてゆく、祈りが届いたと感じるあの現象に非常によく似ている。

実体のない場所へのアクセス。
実体のないものへの移行、実体の無い場所への移動、思考の移動、思考の総体、ネットという場所自体が、祈りの先、道しるべであるご本尊によく似ている気がした。

三次元上での場所や物への思考は、祈りではない、概念上の場所への祈りこそが信仰である、それが母の所属する宗派の教えだった。
ネットに触れたときの私は、既にその団体から脱退していたが、彼らの言う概念上の約束の地は、ネットの概念に非常によく似ていると思った。
ネットは時差を超えて行くための道具だ。
絵がそうであるように、ネットも、概念の世界を揺るぎない物にするための装置なのだ。

モデムの音はもうしないけれど、あのときの赤い音もきっとまだ呼応している。
音の波に共鳴したりしなかったり、そうやって私がついに存在しなくなってもまだ、光と共にこの時空を揺蕩い続けている。
一度放たれた音は、永劫に、なくならないのだから。