散文詩【月明かりの修道士】

「夢が入っているのですよ」
黒い修道服が目の前で翻り、その人物が踊るのが女には見えた、息を飲んで女もステップを踏む、水をこぼさないように、こぼさないように。
「この器には夢が入っているのですよ」
修道士は、物わかりの悪い子供を相手に話すように女に言った、繰り返し繰り返し言って聞かせねばならない約束事を踊りながら女に伝えた。

「こぼしては駄目ですよ」

二人は暗い聖堂の内側で手を繋いで踊っていた、親子が手を繋ぐような、片方がもう一方を導いているような手の繋ぎ方だった。
実際には女が修道士の舞いに無理をして付き従っているだけであった、日の昇るよりも前、聖なる祈りの始まるよりも前の夢の時間に二人は会っていた。

「それでもこの聖堂の蝋燭は消えたことがないのですよ」
女は答えなかった、女には修道士と自分との間に浮かぶ見えない器の方が重要であった、今日のために数年も待っていたのだ。
修道士の日々発する祈りの糸を辿り、沢山の人間が夢の時間を介して彼に会いに来ていた、自分自身ですら気付かぬうちに人々はその修道士に面会を望んでいるのだった。
「たまには自分の事を言ったってイエス様は許して下さるでしょう…こんな話どうかと思うかも知れませんが俺はね、本当は結婚したかったんです、家庭が欲しかったんです」
女は答えなかった、目の前の見えない器から一滴、月明かりに照らされた聖堂の床に影が滲むのが女には見えた。

「俺は家庭というものに憧れていました、人の温もりや愛というものに…でも、そこには俺の居場所は無かったんです、呼ばれていなかったんです人の世には」
「ええ、ええ…」
女はうわの空で返答した、どうでも良かった、とにかく水をこぼさないこと、夢をこぼさないことが重要であった、修道士が一回転した、女も遅れまいとぐるりと回った。
「あの娘、今はどうしているのかなあ…こんなことを考えたりもするんですよ、祈りの最中に俺は神様に向けて聞いたりもするんですよ、あの娘は元気かどうかって、神様はとてもお優しい方ですから、教えて下さいますよ、あの娘は元気だって」

女は小さく言った、「あの…こんなことを言うのは身の程知らずだとわかっています、ですが、少し黙っていただけませんか」今は水をこぼさぬように舞う事が自らの使命だと女は目で訴えた、この行為に夢が懸かっているのだ。
「早い話があの娘に、俺は振られたんです、俺がもっと強ければ、俺がもっとしっかりとした仕事に就いていれば、俺がもっと大きい器だったら…」
修道士はぐいと女の手を引っ張った、予想外に強い腕力だった、影が一滴、また一滴と聖堂の床を濡らしてゆくのを女は見て、心に何処か憤りを感じた。
「あの、ほんの少しの間で良いんです、黙っていただけませんか」
「俺はね、たまに気になるんですよ、信仰が揺らぐ時があるんです、この召命が本物なのかどうか」

修道士のステップはより一層早くなった、女はついて行くのがやっとで少し喘いでいた。
「あなたは気になりませんか、信仰が揺らぐ時はありませんか、夢というものは実在しない、実在しないものに、見えないし触れられないものに軸を置くということに、無意味さを感じる事はありませんか」
女は強く首を振った、つまり、女は頷いていた。
「ある老修道士が言ったのですよ、死にたいって、死にたいって言ったのですよ、半世紀以上も祈りの生活をして、死にたいって」
水の跳ねる音が響いた、最早見えない器の水は半分ほどに減っているようだった、女は迷った…もう諦めたほうがいいのかもしれない、またの機会を待って、今回の舞いはもう諦めたほうがいいのかもしれない…尚も修道士は言った。
「彼にそう言わせているのは神様なのでしょうか、あるいは彼を以てしても、神様を信じ切れなかった、愛しきれなかった、それとも…」

女はその時、脚に鋭い痛みを感じた、長身の修道士に合わせて無理に踊っているのだ、脚くらい痛むだろう…そして全く同時に、今この瞬間自体が夢の世界であると理解していた。
肉体の世界ではないと理解していた。
女は言った、「迷いは影を生みます、迷いは無意味です」、その間にも床は器からこぼれた影でどんどん暗くなってきていた、つまり女は迷っていた。
…床というよりも暗渠だわ、宇宙が広がっているみたい、でも…「宇宙って暗いのね」、女の呟きに修道士は微笑んだ。
「俺はただ逃げてここに来ただけかもしれないけれど、それでも逃げて来ていいよと言ってくれたのはイエス様だけなんです」
「迷いが無いのですね」
「あなたは暗闇で何を見たのですか、俺はイエス様が居て下さるのをわかるから…あなたは暗闇で、宇宙の底で何を見ましたか」
女は口を噤み、羨望の眼差しで修道士を見た、そして言った。

何もかも全てを…それが現実に起こったことであれ起こらなかったことであれ…見てしまったものを正直に言うしかないとわかっていた。