散文詩【聖なる味】

LEDのロウソクランプを見ていたら唐突に母の母乳の味が口いっぱいに広がった。その次には妹の為に暖められた粉ミルク入りの哺乳瓶を親の見ていない隙に盗み飲みし、フフフ意外と旨いと一人ほくそ笑みながら残りを妹にくれてやった事を思い出す。子供時代の記憶というのはそこまで夢みたいな色どりは無く、実に淡々としている。私に姉妹が出来る少し前に身重の母と母の親族らがいかにもな大人という体で「下の子が出来ると上の子はごねる」だの「癇癪起こしたり赤ちゃん返りする、長男長女ってのはそういう生き物だ」等とと話しているのを「…いやあたしそこまで子供じゃないし…妹のことは守るよ」と内心もどかしく聴いていた2歳の冬、ああいうときってどう反論したらいいかわらかないしどうやって話に加わったらいいかもわからない。本当は全部理解している事を理解出来ないと思われていて、でもその瞬間の多数の共通的無意識に対し、敢えて新しい概念をぶつけて揺さぶり起こすほどの気力も無ければ興味もないという場合、わからないふりをするのはたやすい選択で、結局ずっとこんな感じで生きてきたしこれからもやっぱそうしてしまうと思う。

集団社会での分からず屋で居たほうが距離があって楽だし守られている感じがする、だって私には守ってくれる姉は居やしないんだから。

けど実際に守るってのは物理的に小児性愛者が来たら妹を連れて避難することくらいしか無かった。肉体だけじゃなく本当の意味で、魂を守ることが可能なのは聖なる母の味以外には無いんじゃないかって思う。こう思うと母親の母乳の味やら妹のスキムミルクの味(守ってないな全く)を覚えていられることは幸福なのだろう。恵まれていたんだ。あ、父親?父親は、まだ赤ん坊だったころによく枕ごっこをされたもんだ…物理的に赤ん坊である私を枕に見立てて、寝ている時によく頭を乗せられて窒息しそうになった、今でも如実に思い起こすことが出来る、大人の男の頭って無駄に重い、ほとんど空のくせに鉄の玉みたいに重い……笑える真実のうちの一つとして言えるのは、ほとんどの赤ん坊にとって父親との遭遇は人生に於ける敵との初遭遇なんだってこと。敵をやっつけて進まなくちゃならないがイエス様は究極のスパルタなので敵を愛せって言う。それでも和製ベッドメリーらしきオレンジ色の、あの吊るされたセロファン製の馬みたいなものが夜の豆電球に反射してキラキラ揺れる様は何か素晴らしくほのかで強い炎のようで、赤ん坊ながら何とも心を打たれたものだ。炎を見たことは無くてもそれが命の火だってことくらいわかってたよ、命をもって生れて来たんだってことくらいわかってたよ、わからないふりをしててもわかっていたよ、死ぬ時まできっと覚えてるよ人工的な熱くない煌めきの事も、みんなのことも、聖なる味も。