短編【鬼子母神の涙】江戸時代イメージ小説

鬼子母神の涙は塩辛い、やや子をたらふく喰らっていたからやや子の分まで塩辛い
そうじゃないそうじゃない鬼子母神の涙は糖蜜のように甘くて甘くて乳のように温かい
やや子をたらふく喰らっていたから肥えている
やや子をたらふく喰らっていたから飢えている
やや子をたらふく喰らって今はもう満腹だから
みんなに乳と涙を与えているのだ鬼子母神の涙は甘いのだ
甘くて甘くて仕方ない
鬼子母神様 鬼子母神様 仏の道を照らす方
鬼子母神様 鬼子母神様 悪行から立ち直った方
鬼子母神様 鬼子母神様 すべてを許す仏道 これを妨げる何者をも
あらん限りの暴虐を以て
喰らいつくす恐るべき女仏であらせられる 慈悲の御方

「あまりにも可愛くて、この汚らしい世に生まれてきたのが間違いだと思ったの、人間どもの空気を吸ったらこの子が穢れてしまう、そう思って口に石を詰めたのいくつもいくつも…ただの石なんかじゃないあの浜で拾った緑色の石を、沢山の砂利石の中から見つけ出した古から霊力のある緑石を数個、小さな小さな口の中に詰めたの、乳の代わりに…この子を御仏の御元にすぐに還してやりたかったの、あのねえこれは有り体な人殺しとは違う罪なんだよ、ねえお坊様、あんたも清めの業を行っているのだからわかるでしょう怒りでも憎悪でも憂さ晴らしにぶっ殺したんでもない、魂をそのままに留めておきたくてあたしは殺したんだ、殺し続けたんだ、あたしを裁くなら他人の仏道を妨げた罪にあたるでしょうねえ、あたしは許されない、許されないでしょうねえ畜生道に堕とされる、この世に生まれてきたのは詰まるところ仏さまになるためなのだからね、でもお坊様それは…死んだ方がましなことのために死ぬのよりも大事な事なのでしょうか」

一見、青年のようにも見える頼りなげな坊主は片足が短く、うまく歩けない様子で杖をつきながら足元を見て押し黙っていた。擦り切れた袈裟の端を無意識的に掴んで女罪人の言う言葉を聴いていたがその顔はどこか上の空のようでもあった。袈裟はだいぶ古びていて元来墨色であったのが最早鼠色のように変色している…それはこの坊主がまだ修行の身であることを示していた。戒律を守って位上げすれば濃紺、黒、そして大木を示す深い蝦茶、悟りの黄金を示す黄を纏う事が許されたが、彼に至っては未だ墨色の装束を身に着けていた。北風が断崖を吹き付けたが女罪人は、後ろ手を縛られているのをものともせず浮くような足取りで仕置き場まで進んでいく…これに対し、このうらぶれた坊主は足元を確認しながら杖で探るように慎重に進んでいった。時折何かに顔を歪めては立ち止まり女罪人に声をかけた。女罪人はふたたび言った。「死んだ方がましなことのために死ぬのよりも大事な事なのでしょうか、子供のうちに犯されたり、身体に業があったりする人生は、死ぬことよりも大事な事なのでしょうか」坊主ははっとして我に返った。「…もう少しゆっくり歩いてくれないか」崖ばかりのこの島の四方を、砕けるような波頭が打ち付けていた。雲の立ち込めた冬の海は青というよりも黒かった。

「お坊様もしかして脚がお悪いのかね?お可哀そうに、ああだからいつまでも下っ端なんだねえ」

女罪人は一人せせら笑った。それがあまりにもあっけらかんとしていたので坊主は図星を突かれたにも関わらず怒りの感情が湧かずに岩や石ころだらけの足元を…多少曲がった脚をじっと見つめていた。子殺しの女罪人は続けた。「だから罪人の仕置きをやらされてるんだねえ」「仕置き自体は私はやらない、仏道の道筋を罪人に…」坊主の言葉を払いのけるように女罪人は言った。「同じことだよお坊様、お偉いさん方はこんなとこ来やしない、あらやだ、よくよく見たら若いってわけでもなし、はじめのうちはあたしも…はじめのうち…ああ、はじめてやや子を産んだときは殺そうなんて思っちゃいなかった…美味しそうって思っただけ、家の軒下に小さな白い骨が沢山散らばってたのを見つけた奴が居たんだね、そいつが誰だったかはあたしは知らないよ告げ口したのが誰かはね、ここいらでは」女は曇天に白い顔を向け、仰ぐように海を見渡して続けた。「畑も出来ないからみんな漁をするけど、海が赤くなる時には冗談みたいに小魚一匹取れないんだ、あたしがやったことは本当に悪い事なのかい?」

流罪人が送られる果ての島、悪人正機ならぬ罪人正機の役目として配属されている坊主が聞いた女の罪状は子殺しであった…この島でとある女が自らの子を殺し、それだけならまだしも施食用の大鍋にくべて煮、あまつさえ人に食わせ自らもまた食ったという話であった…これを、幾つなのか知らないが子殺しの女罪人は幾度も幾度も繰り返していたらしいので、村の者共も暗黙の了解で不漁による飢えが訪れるとこの女の元へ赴いたのだそうだ。塩害が酷くて農作物の取れないこの島では密かにこのような風習が行われてきたとも聞いた。しかし蝦夷でもあるまいしいかに閉じた寒村であろうとも未開の地というわけではない。いつまでも放免にしておくのも憚られるというので子殺しの女は捕まった。だが死罪にするのも村人の反感を買うだけだろうからお仕置きという処置と相成った。真冬の崖っぷちで49日を耐え忍べば許すという次第だった。「昔ここへ高尚なお坊様が来たのだ、そのお方と同じように禅を組んで耐え忍べという有難い仕置きだ、心して耐えよ」坊主はそう言うと崖の先端に建てられた木組みの檻の中へ女を促した。ほんの2畳ばかりの檻は仕置き役の手によって閉められ、目の前には糒と水とがそれぞれに入った椀が二つ置かれたきりであった。用を足すときには崖に直接通じている小さな穴の中にするように指示すると、ふきっ曝しの檻の中に子殺しを残して坊主は立ち去った。

はじめて子を産んだとき、女はまだ小娘で月のものが来るようになったばかりの幼さであった。「兄ちゃんこれ」と言って産み落とした赤ん坊を兄に見せたところ兄は吐き捨てるように言った。「もう死んでるな、捨てとけ」確かに幼子は呼吸していなかった…猿のようなしわくちゃの顔を盥の水で拭いたが鳴き声一つ上げなかった。股から流れる血はなかなか止まらなかったが女は日に二回も血染めの褌を洗っては痛みを堪えて雑事をこなした。子供は赤ん坊というよりも、魚肉を纏った人形のように見えた。あの岩場の陰に捨てれば海で漁師網にかかる事もない…そう思って子を抱いて、大蛇が出たという岩穴の傍まで女はやってきた…村で忌み嫌われているひねくれものの産婆も呼ばなかったから誰にもばれていないだろう。大蛇様が飲み込んでくださる、はす向かいのねえさんもここに子を捨てたって噂がある。大丈夫大丈夫兄ちゃんとの赤ん坊なんてこっちから願い下げだよ、女は胸の内に呟きながらまだ湿っている肉塊を抱きかかえて夜をひた走った…不意に何かが自分の手に触れたのを感じ、女はびくっとして立ち止まった…夜中の岩場には誰も居ないはずなのに何かが触れた…見るとそれは赤ん坊の小さな手であった。人形のように小さな指がにわかに動いて女の手に触れていたのだった。口は何かが詰まっているらしくうごめいているが声は立てなかった。女は打たれたように赤ん坊の口へ手をやって何が詰まっているのか、呼吸を阻む何かを取り出してやろうと躍起になった…が、無駄であった。一時の夢のように母の手に触れた赤ん坊は静かに息を引き取っていた。ここしばらくの腹の膨れ、強烈な嫌気、嘔気、そういった無理無体な一種異様な身体変化を隠すことにだけ精を尽くしてきたこの幼い女には赤ん坊を可愛がるだけの心身の余裕は皆無であった。元から皆無であったのかもしれないと女は自分に言い聞かせ、そうして尚人目を気にして赤ん坊を捨てきれずにいた…家に引き返し、塩田の塩甕のうちの一つに赤ん坊を隠したのだった。

「ああ…お腹が空いた、お腹が空くってのは嫌なもんだねえ、潮風に吹かれてこうして長まって休むだけのことしかしてないっていうのに目の前に…塩に漬けたあの子の肉を頬張った時あたしは畜生にも劣るモノになっちまったんだよ、餓鬼道に堕ちたんだ、あの肉のとろけるような美味さったら…少し前まであたしの腹の中に居たんだからあたしは、あたしの肉を喰ってるようなもんなんだ、あれが腹の中に居たときには空腹なんて感じなかった腹いっぱいでいつも吐いてたってのに産んだとたん、あれを食べたくて仕方が無くなったの、いいえ産んだとたんというのではない、この海の塩に漬けたときに…その後不漁が続いてぴんと来たんだ、ああこの時のためにやや子を塩甕に隠したんだってね…あたしは裏手で火を焚いた、なあにみんな焚いてたよそういうもんだよ飢饉てのは、塩湯を飲むんだ、塩だけは有り余ってるもんだから家の塩が無くなるとみんなしてうちに来た、その時にあたしは肉を炙ってた、肉の匂いがぷうんと辺りに漂って…ああ、あたしが何をしたかみいんな、わかったろうねわかったってことをあたしだってわかってたさそれが誰の子かもばれていたんだ、何か言われるかなと思ってあたしはそれを一早く頬張った、焼きたてで塩が効いてて…ああ、あれほど美味しいものはそうそうないよ、その後でみんな何も言わずにあたしに、請うようにあたしを見てたもんだから」

「あと半月もすれば放免だ」うわ言を言っている子殺しの女罪人を横目に杖つき坊主は冷たく言った。きっと何処へ行っても内情はこんなものだろうという諦めにも似た嫌悪感を感じていたのだ。一見煌びやかな都でさえそうなのだ。法衣を纏った僧侶会ですらそうなのだ。裏手に回れば堕胎や子殺し、稚児遊び、飢饉はどこにでも起こるし男女の和合を止める事も出来ない。元来仕置き罪人に法華経を唱えさせるための役目でここに居る坊主も最早任務を遂行するだけの意思が無かった。だが半ば死んだように木製の檻の中に白装束で突っ伏して倒れている女罪人に一かけらの憐みも感じないわけではなかった。坊主は言った。「断崖幽閉の仕置きは大聖人様も耐えられた苦行だ、耐え忍ばれよ」過去にこれで数人の罪人が死んだことは伏せておいた。暴風に吹かれ続けていると人間は弱る、弱るのに食うものが少ないとますます弱る。そこにまた海から吹き付ける潮風…この悪循環が子殺しの女罪人にさらなる人肉食を促させる結果になっているのは皮肉であった。足弱の坊主は精いっぱい厳かに言った。「子供の肉の事を考えるくらいならば法華経を唱えよ、一緒に唱えてやる、幾人殺した?せめて南無妙法蓮華経を殺した者の数だけ唱えよ」子殺しの女は突然笑い出した。「アッハハ、十ばかりだね、たった十回唱えりゃ済むのか!そんなら猫だって救われるさ猫は子殺しするだろう?どんな生き物でもするんだよ馬鹿だねえ、やってけない元来産むべきでないものが生まれたらどんな生き物も子を殺して食っちまうもんさ!…十人殺したことになるのか、もっとも、あれを人と数えるのならね、あれはねえ兄貴から孕まされた子だよ、どういうわけだかどれもこれも産声をあげなかった、でも不思議なもんで途中からは…かわいかったねえ、それで思ったんだよこんなにかわいいならこの世に居ちゃいけないってね、人間どもの空気を吸ったらこの子が穢れてしまう、そう思って口に石を詰めたのいくつもいくつも…ただの石なんかじゃないあの浜で拾った緑色の石を、沢山の砂利石の中から見つけ出した古から霊力のある緑石を数個、小さな小さな口の中に詰めたの、乳の代わりに…この子を御仏の御元にすぐに還してやりたかったの、あのねえこれは有り体な人殺しとは違う罪なんだよ、ねえお坊様…ああ、肉が食べたいやや子の肉が…そのためなら何べんだって唱えるさ…南無」

坊主は思わずかっとなって子殺しめがけて砂利を一掴み思い切り投げつけた。女罪人は依然として檻の中で突っ伏したまま動かなかった。法華経を冒涜されたようで許せなかったのだ。砂利石は暴風のためにわきに逸れ、断崖へと落ちて行った。子殺しの女罪人が肩を震わせていた…泣いているのか笑っているのか坊主には理解出来なかった。「あたしはね…心底わからないんだ、この世に子を産んで楽しくやってるっていう人間の事がね、今もこの世の何処か…都なのか村なのかどっかしらに、居るんだろう楽しく暮らしている人というのがあれは…あれが功徳を積んだ魂というものなのかねえ、お坊様あなたにもわからないでしょうに、あんたも悪業のためにそんな身体に生まれついて、こんなとこに流されて、お坊様方の世界の中であんたは嬲られてるみたいなもんなんだろう?え?違うのかい?それともかたわ者だと、托鉢できる坊様になるくらいしかすることないのかい?」坊主は故郷の村を思い出していた、山を切り開くように田んぼが連なる光景は神々しく光り輝いていた…だがそこに自分の居場所は無かった。脚が痛むようになってしばらくはそれを隠していたがやがてとうとう足腰が立たなくなり、そうすると手のひらを返したかのように皆冷たくなった。働けない者は居ないものとして扱われ、嫁の話は立ち消えになり、到底農家に居てはいけない存在となった…なんとかして仏道に入ったはいいものの此処でもやはり後ろ盾のない不具者の居場所は無かった。だが辛うじて飢えることはなく、罪人の改心というお役目も引き受けることが出来た。自分にとっては暁光に等しい恩恵を受けたと思ってはいたがそれでも、単に寺男や下男にまでも軽んじられる自分を薄々恥じているのだった。子殺しの女罪人は黙ったままの坊主を忘れて喘ぐように言った「死んじまいたい」

言葉とは裏腹に子殺しは釈放されるまで生き続け見事放免となった、杖つきの坊主はびっこを引きながら島を後にし、いつまでも変わらぬ恥ずべき墨色の法衣を脱ぎ捨てて山へ入った。

海と山は意外なほど近い…獣道を通ればすぐに行けるのを男は知った。たまに海まで降りて行って塩を手に入れると山奥の農村でそれを売りさばき、罠を仕掛けて獣を捕り、塩漬けにして食った。何が精進料理だ何が菜食だばかばかしい、あんな教えに頭を垂れてタダ働きしてきた自分が許せなかった。しかし同時に…全く同時に元坊主の、この片足の短い男は山の生き物を喰うために殺す時に常に経を唱えた、脚は悪くとも意外なほどに両腕を使って山肌を上ってゆくのでそれを偶然見た人々は男が杖をついてびっこをひいているのを一種の疑念を以て眺めたが、なるほど脚の長さが違うのかとわかると彼が山でとってきた物や塩を買ってゆくのだった…罠さえうまく張れば獲物は捕れ、もうすっかり覚えてしまった経を唱える男の声が山林に染みわたるように木霊した。

山モノと呼ばれる者に彼は成っていたし、山モノの正体というのはこういった…都や人間社会にうまく適合出来なかった者たちであった。彼らが最後に行き着くのは山であった。この男が少し変わっていたのは海まで行って当地では安い値で売られている塩をしこたま買い、彼独自の海と山を繋ぐ最短距離を通って山まで帰り着き、里者たち…農家のものたちにこの塩を高値で売りつけることであった…男の暗い微笑みは何処か恨みを晴らしている風にも見えたが塩は山里で重宝され、男は山モノとは言えど野良商人として人々に覚えられ、受け入れられてさえいるのだった。

幾年かした頃の冬である。雪は降らずその代わりに空っ風なかりが唸っていた…その夏は旱魃で田畑は干上がり、男は用心して商いに出かけるのを控え、山の中へ引きこもってただ一人猟をして暮らしていた。皮肉なことに人間世界と離れた暮らしをしていると飢饉とは無縁であった。若干の変動はあれど猟の要領さえ熟知していれば野山に於いて食い物に事欠くことは無かったし男はこの方面に関する勘が優れていた。「坊主どもに媚びて生きるなんざ性に合わなかったんだ、はなっから山に入ってりゃよかった」吐き捨てるようにそう独り言を言ってからふと、自分の故郷でも飢饉が連鎖的に起こっているのだろうかと考え、思わず笑いが漏れた。抑えようとしても抑えられぬ癇癪じみた笑いのうちに男は思った。いい気味だ。…親にさえ農作業の出来ないのろまとして扱われていたこの男は間接的な復讐の念に心行くまで身を任せ、屠った肉を火で炙って喰らいついた。異様な美味さであった…そんな時外から声がしてはっとした。曇天に眠ったように静まり返った山の中に女の声が響いた。「…里のものです…ご相談があって来ました」

戸を開けてぎょっとした、一見しただけではわからないが…男が口を開く前に野良着を着たふくよかな女はにっと笑ってこう言った「お坊様」男は首を振った「俺は坊主じゃない」

ふくよかな女はずかずかと男の住む掘っ立て小屋に入ってきた…土塀によって作られたこの家は意外なほど暖かく風をしのいだ。「前にあんたを見かけたとき思ったの、あの島に一番近い浜で塩を買ってるあんたを見たときにすぐわかったの、びっこひいてたから、あたし?あたしが…あんたねえ…あたしがあの島に居続けられるわけないじゃないのさ、誰かは嫌だったんだよ子供を喰って生きるのがね、それでもあたしに乞うてしまったのが許せなくてあたしのことをお上に告げ口したんだよお」

元罪人女は飢饉が起こっているというのに豊満であった。彼女は彼女で実家の塩を船で他所まで行って売り歩くうちにこの陸の山地の農家と縁づいて嫁いだとのことであった。「あんたは人の顔を避けてるようだけど、この辺に住んでるんだろうなとすぐわかったよ、あの島からそう離れてないし、江戸まで行くわけがなし、上方に行くわけもなさそう、大聖人様の教えのある場所に留まるのもなんとなくわかってたの」「何の用だ」「あの島とはもう関係ないってこと、だけどねえ、あたし…あたし、人助けをしたいんだよ、子供たちを助けたいの、あんたを見かけたときから思ってたよ…いつか協力してもらおうってね、里にはまだ米がある、だけど旱魃が今年も起こったらもう駄目なんだ、みんな細々食いつないでるよ、あんたを待ってる」「俺に肉を施せって言うのか、俺の捕った肉を、わざわざ人里に持ってってただで与えろってのか」女は頬の肉を内側から噛みしめて泣くような顔をしてみせた。だが本心は笑っているような、何処か人をからかっている様子は仕置き場の木の檻の中での態度と変わっていなかった。「すっかりやさぐれちゃって」男は短い方の足に幾重にも巻かれた霜焼け避けのつぎはぎだらけの手ぬぐいを不意に気にして脚を後ろへ隠すように折り曲げた。少し日焼けした指を握ったり開いたりしながら女は照れるような調子で小さく言った。

「お坊様、あんたなら塩漬けの方法もよくわかってる、あたしなんかよりもずっとね、獣を捕って暮らしているんだもん血抜きのやり方なんかもよくわかってるよねえ?いつだったか南無妙法蓮華経を言わせてくれなかったっけね、ふふ、あのねえお願いってのは…あたしを、塩漬けにしてほしいの」

元罪人女は話した。「旱魃が起こる少し前から…女が孕まなくなったの、農家はさ、子供が居てはじめて嫁さんになれるんだ、あたしには幾人もの子が居るからこれで案外、よそ者にしては良い嫁扱いしてもらってるんだよ、でもねえ旱魃で里の子供らがパタパタ死んでってねえ、今あの村にあたしの子しかいないんだ、みんな参っちまってる、このままだと村は終わっちまう、冬だってのに山に雪も降らないし爺婆が言うには…雪の降らない年の夏は酷い暑さになって干上がるっていうんだ、去年もそうだったのに今年までそうなったら本当に食べるもんが無くなっちまう、それであたし思ったんだ、あたしはもう子を産んだからあたしの役目は終わったんだってね、この農家じゃ誰も知らないけど海辺の、あの島に居たときのあたしは子殺しだった、あんたも知っての通り子殺しだった、子どもを産んでは殺して食べて飢えをしのいでた、だからせめてこの世への恩返しに、あたしの肉をみんなに配ろうと思ってね、あたしが子供を食べて生きて子供を産み残したっていうなら、あたしはやっぱり何かしなくちゃいけない、だからあたしの肉をしっかり血抜きして塩漬けにしておいてほしいんだよ、飢饉が起こってからじゃ遅いんだ、肥えている今のうちに肉として、とっておいてほしいんだよ…このままじゃ来年の今頃には大変なことになる、あんたは来年の冬、あたしの肉を…そう、獣の肉とでもなんとでも言って里のみんなに配ってほしいんだ、もしそれまでにも飢えがしのげなさそうならば…子供たちにだけでも、肉の切れ端、指でも何でもやってほしいんだ、あんたの捕った獣をわたせとは言わない…それに、旱魃が今年も起きたら獣だって残らないよ、あんただって他人事じゃないんだよ?ねえお坊様、どうかあたしの肉を…お願い、お願いします、後生だから」

塩はしばらく売っていないので有り余っていた。塩甕は山肌を穿って拵えた保存庫と言うべき場所にしこたま蓄え、しっかりと据えてあった。確かに女の言う通り獣の数は…今年も旱魃になるのならば減るだろう、それでも男の元には木の実も沢山蓄えてあった…少なくとも彼個人が生き残る分には問題ない位には食料はあった。男は杖に身体を持たせかけるようにして考えた…しかし思考は考えるよりも遥か手前から一つの光に導かれていた、ふくよかな女は泣いていた。泣きながらも照れ笑いをして「肉を喰ってたあたしが、自分の肉を差し出すなんて、世の中ってのはうまく出来てるねえ」と静かに呟いている。

冬の山は不気味なほど静まり返って日は傾きかけていた。「もう覚悟して出てきたからいいの」男は何と言っていいかわからずに空を見上げた。「一思いにやって頂戴」自分が殺人の罪を犯すのを少しためらう気持ちもあった、しかしこれこそが仏道の最大の落とし穴で、何も悪いことをしないでいる事は即ち…何の善行もしないでいることに相違ない…清らかさだけを追い求めてしまうといつの間にかこの精神的暗渠から抜け出せなくなるのだった、我関せず、我関せず、我関せず…何故鬼子母神は仏道の守り神、鬼神なのだろうかと男は斧を振り上げながら頭の片隅で思った。暮れなずむ夕日は雲にかかって血のような色を空一面に滲ませ、山鳥たちが一斉に鳴き交わした。女を、少しだけ開けた地面に伏せさせた。かつて吹きっ曝しの断崖で木の檻の中でくたばりかけていたのと同じように女は地面に顔を突っ伏したまま小さく笑った。「あの時死んじまうよりも今こうして何かのために死ぬ方がましだね、善人は死ぬために死んでいい、悪人はそうはいかない、悪人はその罪を超えるほどの何かのために命を差し出さなきゃならない」びっこを引いた男は震える手で女の首に狙いを定めて斧を振り下ろした。その時微かに「南無妙法蓮華経…」と女が寸前に言うのが聞こえ、次の瞬間には子殺しの女の頭は胴体から切り離されて宙を舞い、どんな獣よりも濃い人間の血が辺り一面に噴出した、同時に日が山の影に消え、辺りは闇夜になった…。

男は夜を徹して法華経を唱えながら女体を解体した。豊満な乳房や尻は腐りやすいのでしっかりと血を抜いてから真っ先に塩に漬けた。干し肉にする部位と、塩漬けにする部位とに切り分け、塩漬けにする場合は干からびないようにほどほどに処理してから酒で清め、獣の肉と同じ順序で塩甕の中に漬けこんだ。困ったのは頭部だったが髪をそり落としてからこれも甕の中に入れた…髪の毛は味噌の中に入れて昆布のように保存することにした…かくして夏が訪れ、女の言った通り雨は一滴も降らないまま秋に変わろうとしていた。下手をすると冬になる前に子供らが死ぬかもしれないという想いに駆られて男は髪の毛入りの味噌だけ持って里に下りた。髪の毛は不可思議に柔らかくなっており、それが人毛であることを男自身すら信じられない思いで眺め、里の者に分け与えた、子供らはきゃっきゃと笑いながら味噌を舐った。その時から男は定期的に里に下りては獣肉やら干した木の実やらをそれぞれの家の戸口に置いておくようになった。やがて深刻な事態が訪れた。秋が深まるにつれて山で獣を見かけなくなった。死ぬにしても何処へ行ったのだろう?獣はしばし人間には予想もつかぬほど遠くまで逃げ延びるという…このままでは自分も死ぬ、男は嫌々ながらも塩甕の蓋に手をつけた。

それはあまりに美味であった…たった一かけらの肉であるというのに獣の一番おいしい箇所をゆうに超える旨さであった…むさぼり食うわけにもゆかぬ、男は一片の炙った肉をいつまでも咀嚼しながら心の内に念じていた。鬼子母神とはこういう事なのだ…それを説明出来る仏典など何処にもない事を男は暗に知っていた。この足弱の坊主くずれは杖をつきながら背中に背負ったいくらかの肉片を、這うようにして辿り着いた里で何も言わずに焼き始めた。綺麗に切り分けた肉の一片を目の前の子供にやり、老人に与え、死にかけの男たちに配った。意外にも飢えで死ぬのは大抵働き盛りの男であったので、男には二欠片ずつ与えた。別の日に乳房の部位をまずはじめに子供らに与えた。子供らは口からよだれを垂らしながらそれを食べた。何の肉かと尋ねるものは一人も無かった…ふくよかな女が冬のある日唐突に姿を消した事について口にするものもまた一人も無かった。恐るべき底冷えの真冬が過ぎ去るころには彼らは、子殺しのふくよかな女の脳髄までもを喰い尽くしていた。

「はやく春にならないかねえ」誰にともなくとある女がつぶやくのが聞こえた。別の誰かがそれに返答するわけでもなく歌うように言った。「春よ春よ春よ来い、春になれば獣も戻ってくる、雨も降る、稲穂の揺れる夏になる」また別の誰かが言った。「我々は…餓鬼道に居るのかねえ」経典の言葉に身を固くした男に誰も気を留めてはいなかったが誰にともなく男は言った。「法華経を唱えれば救われる…」求め、与える、求める心情を知りながら与えることの出来る人間、あるいは罪業に囚われ続けずにある地点で性根を変えて与えることの出来る人間、そういう人間を自分は見たのかもしれない。春は何事もなかったかのように訪れ、獣も戻り、その年の夏は雨が降り、人々は経文を唱えながら歓喜した。幾度もの季節が過ぎ去って母を喰った子供たちは成長して嫁を貰った。杖つきの坊主くずれ…この山モノ男は里者たちに感謝されたがその都度、何かひどく狼狽えながら…まるで坊主のように礼儀正しく絞り出すようにこう言うのだった。

「鬼子母神様の功徳ですよ、鬼子母神様が守ってくださったのですよ、鬼子母神様の涙は…塩辛いが、米のようにとても甘いのです」

以後この地域では誰言うともなしに初夏の慈雨を鬼子母神の涙と呼びならわすようになった。田植えの時期にも収穫の時期にも鬼子母神の歌が歌われた。男は杖をつき、墨色の法衣を脱ぎ捨てたところで仏道が終わらないのを苦しく思い、全く同時に、死んでも終わらないであろうその苦しみを喜びつつ、びっこを引きながら物悲しい歌の中を黙って山へと帰ってゆくのだった。