聖なる恥

恥の中にも種類があって、ただ気恥ずかしいとか恥をかいたという意味での恥ではなく、自分と対峙した相手がとても尊いので恥じ入るような気持ちになるような意味での恥を私は『聖なる恥』と呼んでいる。この種の恥についてはもっと的確な単語が日本語にあればよいのだがどうやら無いらしいのでこの造語を使う事にしている。

先日はもう人里なんて嫌だ山奥に行きたいと言ったくせに今朝方は『やっぱ人里っていいなあ、人間同士のふれあいっていいよね』と考えを改めている。私は安直だ、私が人間嫌いの病を発しているのを無意識下で悟ってか、あるいは植物効果でいろいろな方々…しかも全員が全員距離感を保った親切さを体現している…に話しかけられすっかり人間嫌いを克服した感じさえする。

ゴミ拾いを黙々としている時にはやはり人嫌いオーラが出ているらしくあまり接触は無いが、家の目の前の花壇(半違法)を手掛けている時にはかなり多くの人に声をかけてもらえる。やはり花は人の心を癒すらしい。剪定した傍からまた伸びてきているような印象を受けるこの賽の河原的作業でも、誰かの役に立っているような気がしてくる(半違法だけど)。以前ここがただの空き地だった時には放置自転車は捨てられるわゴミは捨てられるわでとても、善い雰囲気とは言い難かった。この空き地に隣接しているのが自分の家のみという理由で、市役所から玉虫色の返答を賜ったので勝手に耕して花壇を造設したところ結構いろんな人から暖かい言葉を頂くようになった。堂々とありがとうと言うのも気が引けるので(半違法なので)いつもモゾモゾしながら返答しているのだが花壇植物のお陰でそこまで不審がられない、凄いな植物って。

相対する人が自分より確実に優しい事が解る時や、こんな風に挨拶をしてもらえたりお礼を言われたりするときに私は喜びつつもかなり恥じ入る。ああどうしよう…自分の物理的周囲に居る人がこんなにいい人ばかりだったなんて…と恥じ入る。恥じ入るのだけど、自分が至らなくて情けないのだけれども、おそらくこういった聖なる恥を感じている時というのが人間、人生で一番嬉しい状態だと思う、だってそれって言うなれば、物凄く良いものを見せてもらっている状態で、与えてもらい、尚且つ与えようとしている状態なのだから。これ以上の贅沢は無いだろうと思う。

自分よりも自分の周囲の人が明らかに…人間的に秀でている場合に感じる恥は、それが本当なら恨みの無い聖なる恥を感じさせてくれる。何故なら本当の意味で秀でている人というのは何故か他者に孤独感を感じさせないからだ。誰かが完全に善人だとか完全に理解出来る等という事は無いが、何のわだかまりもなくすっと心を開いてくれる人というのは案外居るものだなあと感心している。

さて、聖なる恥の語源由来は十字架の聖ヨハネという聖人が何かの本に書いていて、まさにこういう至福の恥を感じることが頻発していた私にとっては至極合点の行く表現だったためこの概念を好んでいる。厳密には…聖なる恥、という言葉ではなかったかもしれないが大体こんな風な言葉だったのでよしとしておく。ちなみに私はカトリックの人間ではないため彼が聖人かどうかにもあまり興味は無いが、詩人として妙に気に入っているので彼の500年ほど前の著作をたまに読んでいる、これからも聖なる恥をどんどん感じてゆきたい、ありがたい恥によって身も心も浄化された感じだ、私は本物の人間嫌いではないのだ。