それが浄瑠璃の娘人形であるということ以外、米屋の若旦那の脳裏には入ってこなかった。桟敷席から観る浄瑠璃人形はこの世の物とは思えないほどに白く内側から輝いていた…目が合った…若旦那は心のうちにそう呟き、身を乗り出しかかったが後ろにいた客に制されて座布団の上に大人しく座した。人形を操る黒子もまた現世に属してはいないかのようであった。帰宅してからも瞼に焼き付いた娘人形の艶やかさ、演目が何であったかも忘却するほどに彼は浄瑠璃人形を愛していた。米屋とは言えど三代続いた名店であり、隠居した先代が道楽を出来るほどの蓄えもあった、店は存外に潤っていた。「そろそろ嫁さんをもらったらどうか」そこかしこからそう声をかけられたが若旦那は曖昧に微笑んで茶を濁し、番頭に店を任せて演目に通った。
浄瑠璃人形の良さというのは身振り手振りを付けて動くことにある、義太夫が声を充て、人形師たちが操る通りに舞うのだ。人形と一言で言ってしまえばそれまでだが…雛人形をはじめその他の人形はどんなに精巧に作られていても生きている人間のようには動かない、ただのお飾りだ。浄瑠璃人形なら何でもいいというわけではなく、娘人形の、それも今江戸にやってきている一座の人形…誰がその頭(かしら)を作ったのかは不明であったが【花鈴】と呼ばれるこの一体の娘人形と自分とが不可思議な縁で結ばれているのを、米屋の若旦那は胸の内で強く感じていた。花鈴を見せてくれないかと楽屋へ頼み込んだことも一度や二度ではない。無論、花鈴というのは一座が所有する娘人形に名付けたごくごく内輪の名前であり、それは普段公には口外されなかったが通い詰めるうちに、熱を上げるこの若旦那に人形の名を教えたものがあったのだ。花鈴は舞台に上がると真っ先に若旦那の方へ向くように思えた、無論それは黒子である人形師の操るもてなしの技に過ぎなかったが…彼女の纏う人形用の着物さえ彼の胸を高鳴らせるのだった…。さてこの米屋の若旦那には浮いた話が一つもないのかというとそうでもなく、毎日声をかけてくれる町娘のお絹が自分をじっと見つめている事にも薄々気が付いていた。
ほどなくしてこのお絹という女がとうとう米屋の嫁にやってきた…婚礼はつづがなく行われ、春の麗かな日に結納を交わし、若き二人の夫婦はさながら雛人形のように着飾って粛々と盃をあげた。見ようによってはお絹は人形のようでもあったが…本当の人形は生きていない、生きていないものに対するこの高鳴りが恋であると決定的に気付いた時、夫婦は双方、どちらからともなく枕を離して眠るようになった。若旦那はひたすらに浄瑠璃の娘人形花鈴を夢想した、今演目にやってきている一座が近々江戸を出るという話を聞いてどうにかして花鈴を「身請け」たいと人形座に申し出たのは初夏の頃であった。
「身請けったってねえ…」人形遣いの老翁は苦笑した。「まあ気持ちはわからんでもねえよ、この人形座はみんな人形が好きでやってるんだからそれなりに愛着もある、なあ花鈴?お前も若旦那が恋しいか?ははは、なんだかなあ最近は舞台に上がるたびに花鈴の頭が勝手に旦那の方へ向いてるような気がするんだって、さっきも話してたとこだよ」米屋の若旦那は人形遣いの老翁の気さくな言葉に生娘のように頬を染めていた。木賃宿のような楽屋はお世辞にも綺麗とは言えなかったが障子の向こうから差す初夏の日差しに照らされて、壁にもたせ掛けてある花鈴人形は普段よりも生き生きとして見えた。他の人形遣いのうちの一人が言い淀みつつも言った「でも…花鈴が居なくなると俺たち、娘人形がなくなっちまうんじゃ…」老翁が言葉を継いで言う。「そうだなあ、娘人形無しに、年増とお多福と男人形だけで演目をやれっつっても困るなあ…誰でも造れる品じゃあねえ…またそれなりに腕のある人形屋に頼まなくちゃならねえ、一座を食わしてくくらいの人形でねえとなぁ」彼らの言わんとしていることがさすがの米屋の若旦那にも通じたので彼はいよいよ頭を下げて申し出た。「幾らでしょうか」
花鈴人形は普段着として橙色の振袖を身に着けていた。厳密に言えば頭だけ外せばそれでよかったのだが米屋の若旦那にはそれがどうしても、花鈴を花鈴以下にしてしまう行為のように思え、首だけをもらって床の間に飾っておくようなことは花鈴に対して失礼だとすら感じていた。よって花鈴人形、もとい浄瑠璃人形の胴体部位と花鈴の頭とをもって、花鈴の全てを傍に置いておきたいと願ったのだ。この事に対する人形一座の要求は「それなりの新しい浄瑠璃人形の胴体部位とそれなりの娘人形の頭」そして「いくばかの謝礼」であった…そのようなことは潤っている店を持つ若旦那には造作もない事のように思えた。だが店の金は先代の隠居が思いの外使っていたのだった。欲しくても手を出しにくい、そうこうする間に花鈴が遠くへ行ってしまう…「まさか人形を家に飾ろうって言うんじゃありませんよねえ」お絹が、細いながらもよく通る声で若旦那に鋭い意見をした。「…値も張るでしょうに…」嫌ならこの家から出て行け、とも言えない若旦那、この二人は正面からぶつかるのをひたすらに避けていた。こういった事情から人形を家に置いておくことすら反対されても尚、あるいはそのように八方ふさがりになったからこそ彼は余計に花鈴人形を欲し、彼はついに店の金に手を付けた。
ともあれそれは元々自分の店の金である、自分の金であるのだから誰からも文句を言われる筋合いすら無いのだ…。そんな風に思いながら「身請け代」を手に人形座に赴いた。
月夜の晩であった…手にした浄瑠璃人形の花鈴はずっしりと重く、成程これが人形遣いの鍛錬の成果によってあのように鮮やかに演目を舞うのかと若旦那は歓喜の嘆息をした。浄瑠璃人形の花鈴もまた目を潤ませて自分を見つめているようであった…。「やれ若男の菊吉がこっちを見てやがるな、悪いが菊吉、花鈴は今夜旦那様の所へお嫁に行くんだと、なに、お前にもまた新しい御新造さんを見つけてやっから」人形遣いの老翁の言葉に米屋の若旦那ははっと後ろを振り返った。見ると行燈の灯りに照らされて男形、それも美形の若男…幾度となく花鈴と恋人同士の演目をやってきたであろう人形が、涼しげな目元を陰らせながら若干恨めし気にこちらを見ているような気がした。女形の人形の中には顔に仕掛けがしてあって、一見美女なのにある操作をすると一瞬で目元はぎょろりと飛び出て口は裂け、鬼の形相に変貌するものがあるが男人形にはそういったものは無い。だが今菊吉と呼ばれた若男の人形は何やら暗い光を宿して今にも鬼に変化しようとしているかに見え、寒気がした。このような戸惑いが胸中を渦巻こうとも、米屋の若旦那は両手に伝わる花鈴人形の重みに耽溺していた…今花鈴がここに居る、ここに在る!そして彼女の顔には一点の曇りもないかのように見えた。男人形の菊吉はどうだか知らないが花鈴人形には自分の所へ来る事への迷いなど微塵も無いのだ…!!米屋の若旦那は愛娘でも掻き抱くかのように風呂敷に包んだ浄瑠璃人形を大事そうに家へ持ち帰った。
米屋には蓄米と言って普段表に出さない米が実は結構ある。自分の店を持ちながらもどこか居場所のない若旦那は窮して、女房お絹の荷物も置いてある床の間を避け、結局この蓄米用の大きな米櫃の中に風呂敷包みの花鈴を入れたのだった。女房お絹は下女と結託しているらしいところが見受けられるので人形が見つかって煩く言われるのを避けたい一心であった。お絹…妻である彼女が、一から十まで親同士が決めた縁談相手だったのなら下女に愚痴を言うといったような間接的な文句を言われなかっただろうが、元々同じ界隈に住んで居て、特段ちょっかいを出したわけではなかったとはいえお絹からの恋慕は自覚していたし憎からず思っていたのだから、この恋慕の情が段々に…人形ばかりに傾倒して自分には指一本触れぬ夫への恨みに転じているという現状に、彼はそう反論も出来ないで居るのであった。お絹は案外楚々とした美しい女であったが、抱かない年月が加算される度に喜怒哀楽の変化に乏しくなり、無表情なつるりとした顔はもとより態度も冷たくなってゆくように見受けられた。
店の奥、仕舞いこんである蓄米の管理は番頭に任せていたのでそれを自分が引き受けると若旦那は言い、夜な夜なこの大きな米櫃の並ぶ秘密裏の歓喜が宿る部屋へ来ては花鈴人形を取り出して愛撫した。
蓄米の櫃の前に来ると若旦那は胸がはち切れんばかりになった。米の一粒一粒に洗われたかのように浄瑠璃人形花鈴は微笑んでいた…。月明かりの中で見る花鈴はどんな時よりも一層艶めいていたが、肝心なのはこれは厳密に言えば精神の愛であったということだ、若旦那はただ恍惚と花鈴を胸に抱いて一晩中愛撫しつづけ、逸る心を抑えて魂で話しかけた。直接的にさもしい行為に及ぶよりもこの方がどんなにか一つに和合出来るのかを彼は知っていたのである。不可思議なことに若旦那の問いかけに花鈴はきちんと返事をするのだった。そればかりか昼の間でさえも米櫃の内側から若旦那に屈託なく話しかけては微笑んでいるのを彼は強く「感じて」いた。
花鈴人形は若旦那に言った『わたし、貴方様を慕っています』俺もだよと若旦那は仕事中にも心で答えた。『でも、奥方様も貴方様を恋慕っていますのよ』もう慕ってないよあいつはと答え、そしててきぱきと働くお絹の方をちらりと見て若旦那は胸の内に花鈴との会話を続けた。あいつは俺を慕ってなんかいない、あいつはなんていうか…俺を好きなんじゃなくて、店を切り盛りしたかっただけなんじゃないかな、自分が一番輝く場所に居たい、そういう女だよ『まあ、でもわたしも舞台に居た時はそう思っていましたわ』花鈴のかわいらしい返答に若旦那は思わずくすりと微笑んだ。その微笑みを訝し気な目で見つめるお絹と図らずも目が合った、美しくはあるが氷のような冷たさをたたえていた、まるで鬼のようだと若旦那はすぐに目を逸らした。
浄瑠璃人形の花鈴との内密な会話は夢の中を除いては絶えず続いていた。これが彼らなりの蜜月であった。若旦那が肉体的情を直接的には花鈴に向けなかったのは何故かというと、一つには、そのようなことをしたら、この花鈴との会話や楽しいやりとりが…全て自分の作り出した妄念に過ぎないということを直視してしまうような気がして避けていたのだ。もう一つには花鈴の魂はやはり実在していて、人形には人形なりの肉体的情すらも宿っているとすれば…それを認めてしまえば当然、若男人形の菊吉と交わるのが花鈴人形の情愛の正当な形なのではないかという思いも彼にはあった。どちらにせよ自身の整合性の無さを暗に問われるような心持があり、気が咎めて情欲を直接、人形の素肌に向けることが出来ずに居たのだ。
そうは言っても彼は花鈴人形に欲情していた。たとえ自分の作り出した人格であるにせよ花鈴は可憐であったし、何よりも彼女が生きていないという事実そのものに一種の不可侵さを感じていた。説明しがたいのだがそれがために花鈴を両手に抱いては陰茎を押し付け、思い切り犯したい気持ちに駆られても居たのだ。花鈴人形を米櫃から出して風呂敷を開け、隅に置き、月明かりに照らされた彼女の白い顔を見ながら幾度も幾度も…一人果てているのだった。この姿を見られたら自分の店なのに自分の居場所がついに無くなるであろう事を悟っていたのにもかかわらず、衝動は激しく彼を貫き、抑えがたいものになっていた。
満月の晩だった。月は煌々と真夜中の江戸を照らしており、今宵も若旦那は起きて花鈴人形の所へ導かれるように這っていった。…だが何かがおかしいことに気付いてはいた、なにかおかしい、それが何なのかはわからないが何かがおかしい…真夜中は何事もなく過ぎ去り、また大きな米櫃の中に花鈴人形を隠し、昼間になった。時世に疎い米屋の若旦那ではあったがそれでも商い上に不都合の生じたのを感じていた。これは実際とんだ珍事であって、米手形の一切がその夏一時的に紙切れと化したのだった。米問屋から仕入れる米の量は緊急時という事でたったの数日で激変した。この動乱は元を正せば米の買い占め行為と江戸没落の噂が起きたというだけの話ではあったが動揺の波は庶民にまで伝播して、十日も経たぬうちに皆が米を買い漁りに来た。若旦那は大慌てで店の裏に仕舞ってある蓄米の大きな米櫃ごとを、誰にも開けられないように、花鈴人形をかくまっているという秘密がばれないよう何処か安全な所へ持ってゆこうとしたのだが最早暴徒と化した住民らはいつのまにか店の内部にまで上がりこみ、鬨の声とも野次ともつかぬ声を上げたのだった。「居たぞ!!こいつ米を隠そうとしていやがったんだ!!」
あっと言う間の出来事であった。米屋の若旦那の抱えた保管用の大きな米櫃ごと、押し寄せてきた暴徒のうちの数人が乱暴にひったくり、周りが囃し立てた。「米だ、米だ、米をよこせ!!!」若旦那は右往左往して絞り出すように絶叫した。「やめてくれええええ花鈴、花鈴が!!!!」愛しい女の名を口走ったことは誰にでも理解出来たが、何故米櫃を手にして女の名を叫ぶのかを…米櫃がぶち壊されるよりも前に理解した者は皆無であった…。もみくしゃになって若旦那からひったくったそれを誰かが叩き割った。その場にぎゅうぎゅう詰めになった十数人かが声にならぬ声を上げた。大量の米粒が床に散乱すると同時に一体の浄瑠璃人形…花鈴が転がり落ちてきたのだ。しかもその面妖な事と言ったら、何故だかは判らないが花鈴は風呂敷には包まれておらず、橙色の町娘の着物はややはだけており、決定的なのは胸に刃物が突き立てられ、あろうことかそこから血が流れていたのだ。赤飯のように赤く染まった米にまみれて花鈴人形は超然と微笑んでいた。その場にいた暴徒は次の瞬間口々に叫びをあげて店を出ようとしたために、米屋に入ろうと待ち構えている大勢の人々と押し競まんじゅうをする形になり、その場は支離滅裂、さながら地獄の有様であった。
米屋の若旦那は花鈴を抱きかかえたまましばらくの間放心状態であった。店の者たちもこの珍事、もとい若旦那の人形への執着に対してどのように対処すればよいのか考えあぐねていた。
一体幾時が過ぎたのか…十六夜の月は若旦那と花鈴を闇の中にぼうっと浮かび上がらせ、まるでこの男と人形だけ、あの世から切り取られたかのように虚ろに見せているのだった。後ろから声がして若旦那は肉体的反射だけの理由で振り向くと、そこに立っていたのは頭からすっぽりと黒子の衣装に身を包んだ何者かであった。目を凝らすと若男形の菊吉人形が闇の中にすっくと、何者ともつかぬ黒子の人形師に支えられ、刃を光らせてにじり寄ってきているではないか。
「お前だったのか」それが明白には誰に対して発せられたのかを若旦那自身が理解するよりも前に、菊吉人形が刀を花鈴人形めがけて振り下ろした。「ひょっとしてもう幾度もこんな風に、お前は花鈴を傷つけていたのか?」若旦那は目を見開きながら問うた、これに関し『そうだ』と確かな返答があった。菊吉人形と思しきものから発せられる義太夫風の声は続けた『お前が花鈴を淫らに汚すたびに俺は花鈴へ、裏切りの罰として刀で傷をつけてやっていたのだ、花鈴はそれをいつも隠そうとして着物を着込んで微笑んでいたが』若旦那ははっとして言った。「お前は俺が花鈴をこの家に置いてからずっと見ていたのか、逢瀬を見ていたのか」声は答えた『そうだ』声は続けた『そして若男人形の菊吉を買い入れた』その時黒子を覆う頭巾がはらりと床に落ち、若旦那は声も出なくなった。そこに黒子装束を身にまとって立って居たのは正真正銘、女房のお絹であった。
世情が緩やかに元の通りになるまでには、旅回りの人形一座がまた戻ってくるまでの時間がかかった。
荒らされた店を修理し終えてから幾月もが過ぎたある夜、新たに花鈴の安置場所としてこしらえた大型米櫃の中から細い腕がにょきっと生えている事に驚いた若旦那は、米を掬い取ってみるとそこには女房のお絹が居た。花鈴と同じ町娘の橙色の着物をぴったりと身に着け、米に埋もれてこちらを見ているではないか!…先の菊吉を使っての一件から二人は会話さえ無くなっていた。だが話をしないという頑固な態度が夫婦を以前とは異なった関係性へ導いていたのは確かだった…若旦那の中に、お絹という女がただの取り澄ました女房面をした人間ではなく、もっと血の通った何か、怒ったり、時に自分以上に大胆極まる行動をやってのける情の豊かな人間なのではないかという問いが生じるようになっていた、しかしその問いを実際に問いかけるほどの度胸は無く、その事がまたお絹を密かに苛立たせているであろうこともわかってはいた。そして互いに怒りを露わにして幾月も無言で過ごしていた最中の出来事であった…とはいえ大型米櫃の中に米屋の女房たるものが尊い米の上に傍若無人にごろんと横たわるというこの奇行には、それが当てつけであることは百も承知であったが、さすがの若旦那もぐうの音もでなかった。ついに若旦那は折れて数か月ぶりにお絹に声をかけた。女房を狂わせたような気がして男は頭を垂れて小さくこう言った。「…ごめんよ」
おそらくこれが初めての、男から女に対する発露であったのだろう。そして他に何をどう話しかけていいのかを夫たる彼は長い間思案した。刀で胴体に傷をつけられた花鈴人形は彼が素人なりに手当し、あの不可思議な出血もただの紅だとわかった。傷そのものの修理は一座が戻ってきてから聞くしかなかったので、花鈴人形を表面上は綺麗にしてやり胴体には白い布を包帯のように巻いておいた…これが彼なりの精一杯の思いやりであったし、この件に関して女房のお絹を直接咎めることを避けてはいたが内心怒ってもいた、愛しい女を傷つけた憎い女に対して怒っても居た。
とはいえすべての元凶でもある花鈴人形を表に出すわけにもゆかないので壊された代わりの米櫃を作ってそこに仕舞っておき、女房のお絹が買い取ったであろう若男形の菊吉人形も別の空の米櫃へ仕舞って管理していたのだ。相も変わらず若旦那の肉欲の情は花鈴人形に向いており、あのような事件が出来(しゅったい)したにも関わらず、ひと月ふた月と過ぎ去ると若旦那は夜な夜な花鈴を愛撫しに店の裏へ通ったのだった。しかし何もかもが以前とは異なっていた。
花鈴人形の魂の声は若旦那にはもう聞こえなくなっており、聞こえたとしても微かなものか、記憶の中の一座の義太夫の野太い作り声が再生されているのであった。花鈴を見ている時に感じる情欲も内心少し減ったように思われた。花鈴人形とは、詰まる所木でできた人形であり、それ以下でもそれ以上でもないという感覚が若旦那に生じていた…。そのような折に、普段花鈴人形の入っている米櫃…米騒動時以降は空の米櫃に、あろうことかわざわざ元のように米をしこたま入れて、豊穣の神を土足で踏みつけるが如くその中に埋もれるようにして女房のお絹が、これまた花鈴人形に似せて作ったと思われる着物まで着こんで待ち受けていたのだ。これがお絹という女の完全な嫌がらせなのか、あるいは心の何処かで気を引きたいがために行う奇異な試みなのかは夫である若旦那はともかくお絹自身にさえわからない風であった。何もかもがふざけた小芝居であるかのようにお絹は無表情ながらもどこか冷笑しているようだった、ふてぶてしさというよりもこの世そのものを諦観し切っているかのような冷淡さが、女をさながら人形のように見せていた。その時に月の光が女の顔を照らし、より一層陶器のように血の気の薄れてゆく…これを見て男は心底、女を哀れだと思った。
同時にこの女が、自分を好いているのだろうがそれ以上に自分を…あるいは人の世を徹底的に小馬鹿にしていることも感じていた。また心の何処かで、今となっては婚姻以前にこの女が何かにつけ、挨拶なり天気の話しなりを恐らく彼女なりに懸命にしてきたのをこの男も懐かしく思っていた。そんな情など元々持ち合わせていないかのように、恨みすらも抱いてお絹はじっと天井を見つめたまま死体のように動きもせず、夫の言葉を完全に無視していた。それは人形好きの偏執的な男を好んだ自分自身への侮蔑とも取れた。若旦那はしばし人形のふりを心底無関心そうに演じている天邪鬼な女房を心ここに在らずのままじっと見つめていた。
この時男と女の間にどのような交感がなされたのかは第三者はともかく当人たちにさえ不明であろう…。男は静かににじり寄り、花鈴人形にするようにしばらくの間全身を優しく愛撫した、そして花鈴人形にはせずにいた行為を人形と化した女房に行った。本当の木偶人形を抱くかのように男は自らの情欲を無感動そうな女の肌へ、ともすると憎しみさえも込めて容赦なくぶつけ、女の方は声を押し殺したまま一声も上げず、息遣いさえ堪えたまま男との和合で達していた。両者の心と身体が一致したのかはたまた互いに、性根では心底嫌っていたのかもしれない…いつの間にかこのすべてが裏腹な夫婦の間には幾人かの子供が生まれ、店も続いたのだった。
花鈴人形と菊吉人形はほどなくして浄瑠璃人形一座に返された。それから何故かこの二体の人形は『子宝を授かる』という触れ込みで子の無い夫婦に貸し出され、奉納金を得て戻ってくるという役割を、触れると木屑が出るまでこなし続けた。浄瑠璃人形というものは構造上下腹部が無い。すげ替え可能な頭(かしら)がついており、胴体、そして腕、脚は胴体に紐でぶら下がっており、人形遣いたちが時に二人がかり三人がかりで手足を動かす、人形は座ったり立ったりするが下腹部は空の状態なのだ。下腹部の無い人形を子宝に奉るのは滑稽かもしれないが…ともするとそれこそがかの若旦那を生身の女へ向かわせたのかもしれない…いつしかこの二体は浄瑠璃の社に奉納され、幾多の時代を経た現代でも神様として祀られている。