短編【光る酒】江戸時代イメージ幻想小説

酒が飲めないのが何より辛い…縄を木の幹にかけ、そこを簡易の足場にして樵の男はするすると上部へ上ってゆく…顔を出したところからは遠く富士山が見えたが山々に阻まれてその全貌の大部分は隠れているのだった。下から声がするが無視する。さらに急くような鏡か何かを太陽光に当てて跳ね返しているのか光の筋が鋭く男を狙うがこれも無視する。
…エテ者め…
エテ者、これが実際には山モノのようなお上に背く移動民族を示すのか化け物幽霊の類を示すのかを男自身もわかりかねていたが、山の中に居ると時折わけのわからない者に出くわすのは確かだった。彼らが実在の人間なのかどうかを男は気にしたことは無い。エテ者は人間の振りくらい簡単にする…幹を切り落とすと樵はまた猿のように降りて行った。
今日はこのくらいにしておくか…男は切った木を小屋の傍に置いて自分は泉の水で顔と脚を洗うと中へ入り寝転がった、酒が飲みたい、とにかく酒が飲みたい、酒が飲めないのが何よりも辛い。

樵たちは山のそこここにそれぞれの小屋を建ててそこを仕事をする間の住処としていた。樵の中には里に帰るのが億劫になってそのまま住み着いてしまうものも少なくなかった。樵という職業に従事する者にとって木とは単なる商売上の品物ではなく、時に人を超えた聖なる何かであった。この酒好きの男にとってさえそうであった。里から来るときに持ってきた酒は底を尽き、仕方なしに米を発酵させたものを作って飲んでいたが本物の酒が恋しくてならなかった…この男にとっての欲望の全ては酒に注がれていた。彼にとって金というものには脳髄を揺さぶるほどの体験的実体がない分興味がそこまで至らず、給金が入るとほとんど酒に費やして、それが無くなるとまた森へ入ってゆく…そんな生活を続けていた。小屋では仕事仲間の言うような怪奇は起きなかったが木と格闘している最中に邪魔をされるように感じることは多々あった…無論それが何を示しているのか男にはわからなかった。
風の音がごうごうと唸っている…この山奥に俺しかいない、そんな時唐突に小屋の戸を叩くものがあった。

「ごめんください」しゃがれた声が言うのが木々の間に響いた。

戸を開けるとそこには一人の旅商人が立っていた。彼は脚絆をさすりながら言った。
「脚をくじいてしまって、今晩泊めていただけないでしょうか」
断るのも悪いので男は旅商人を小屋の内部へ招き入れた。囲炉裏の火が小さく音を立てて弾け、それに感じ入るように旅商人は筵の上に腰を下ろすと荷物をほどきにかかった。男は湯を沸かして白湯を出し、その残りをたらいに開けて冷ますと脚を洗うように勧めた…。
「富士山を超えて盆地のほうまで行こうとしていたのですが、エテ者に騙されましてなあ、女の姿をしていて、気が付いたら荷物を半分も取られましてな」
「何を取られたんです?」
「酒ですよ、地酒です、これが盆地の人間には妙に高値で売れるもんで」
男は旅商人の荷物が酒だと聞いて内心ゾクリとしたが平静を装って言った。
「…そうでしたか、地酒というがどんな特色があるので?」
食い入るように荷物を見る男の眼差しを見透かしてか旅商人はカラカラと笑った。
「おや?飲める口ですかな?酒の中にマムシを入れてしまうのもありますがこの酒は入れるものが違うのですよ」
「何を入れているのです?」
旅商人はあまりにも執拗な男の視線を避けるように少し俯いたが、仕草に相反してその実、その姿勢のまま笑っているようだった。日の傾きかけた暗い山小屋の中で顔を伏せたまま影のように笑う旅商人の様子は少し人をぞっとさせるものがあると男は思ったが、そのままにしていると旅商人は小さく笑いながら言った。
「…人の首ですよお…」
見上げた顔は黒い面をつけたようにつかみどころがなく、さすがの酒好きも黙ってしまった。山陰の夕闇は里のそれよりずっと早く訪れる。はや影と影となった二人は暗闇の中で一瞬間対峙した。旅商人はふたたび口を開いた。
「さすがは山で働く方、なんとも人の好い方だ、冗談ですよお」
しかしその語調には明らかに、人を嘲笑するような音色が含まれているのだった。

物心ついた時には父親は家で飲んだくれていて、外では人の好い顔をしていたが酒が入ると手が付けられなくなった。父親の酒を盗み飲みし出したのも子供の頃だった…家に居るのが嫌で樵になって山々を渡り歩き、仕事を任されるようになったので山に移った…男は自分の半生を思い、否む気持ちがあるのにも関わらず酒を求めるのを抑えきれない自分をこれでも制していた。金というのは直接的ではない、食べることも出来ないしそのものを持っていて直接楽しめるかというとそうではない、そんなものには興味が無かった。里には女房も居るし、女を恋しくないと言えば嘘になるが三度の飯以上に必要不可欠かというとこれもそうでもない。
…だが酒だけは違った…
酒を飲むと喉から胃、そして血潮の内側すべてに至るまでほの白く発光するかのように男には感じられるのだった。生きている、ああ俺は生きているぞと叫びたくなるほどの力が溢れるのだった。酒を飲むということは即ち生きている事を実感するひと時であり、それ以外の時間は幽霊にでもなったような塩梅で仕方なしに生きているとさえ言えた。酒は男にこの上ない活力をもたらしたがまた一方でそれを奪ってもいるのだった。
樵の男は旅商人の寝入ったのを確かめると荷物に手をつけた。自分が今何をしているのか?そんな事よりも先に頭の中で既に酒をちびちびと舐めているような感覚であった。それとなく一口飲ませてくれと言ったが断わられた手前それ以上ねだるのも気が引けたし、かといって飲まないという選択肢はこの男には無かったのだ…およそすべての人間がそうであるように彼もまた生きるより他無かったのである…。
荷物を包んだ風呂敷の結び目はすんなり解けた…それは割合小さな手樽に入れられており、栓抜きを外すとぷうんと甘い酒の香りが樵の鼻をくすぐった。用心深く茶碗に注いでみると、酒は見事に月のように光っている…!男は息を飲んだ。

これは本当に口にしていいものだろうか?凡俗が口にしていいものだろうか?

翌朝早いうちから起き出して進もうとする旅商人を男は引き留め、脚が治るまで居ろと前後も考えずに言った。旅商人はのっぺりした顔を歪ませるように笑ったままその申し出を断るとさっさと小屋を後に森の中へと姿を消した。果たして商人は酒を盗み飲みしたのを察していたのだろうか?
…あの味が忘れられない…それ以外の事がどうでもよくなるような味であった。いつものように木に登って幹を切り倒している間もかの光る酒の事が頭から離れなかった。むしろあの一口のせいでまたさらに酒を欲している自分に男は戸惑っていた。木々の間から旅商人の行脚するのが垣間見えた…慣れぬ旅人はこのあたりの地形に難儀しているらしく同じところをぐるぐる回っているらしい…何が男をそこまでさせたのかはわからない。

酒の美味さか、父親から受け継いだ呪われた性分か…次の瞬間、樵の男は荒れ狂う熊のように慣れた山を駆け出し、斧を持ったまま飛ぶように旅商人の後ろ姿めがけて突っ込んでいた。

獣の叫ぶような雄たけびを上げて旅商人は一振りの刃に打たれ、脳天をかち割られて地面に伏した。樵は、傍らで地獄の池のような血だまりを作っている旅商人を見もせずに、物も言わず手桶の包んである手荷物をひったくり、武者震いのようになっている手で風呂敷を解いて一口煽った。
…頭の奥深くに光る酒が染み込んでゆくのがわかる…!
斧が目の前に落ちてようやく自分が酔っ払っている事に気付くと彼は酒と斧とだけを持って小屋に引き返した。まだ昼にも至っていない時分であったが森は妙に暗く、男は小屋の傍に腰かけて鬱蒼とした緑の木々の間に夢の酒を思う存分煽った、幸せだと男は思っていた。

自分自身が発光しているのがわかる…自分というものが樵である男をとうに抜け出して森中はおろか山脈中を駆け回っているのだった。山脈の木々の葉の一葉一葉、昆虫の一匹一匹、動物の一頭一頭に至るまでに意識が巡っている。
…これは山の神の視点なのだろうか?
人間という物をとうに超えているのを男は心行くまで楽しんだ。自分のすべてが満たされる瞬間というものがあるとすればこの樵にとって光る酒を煽る時以外には最早見いだせないだろう。発光している自分の周りを周囲の闇が包み、いつの間にか月が出ていた。その月をいつまでも眺めていたが一向に日は上らなかった。眠ろうとしても寝付かれなかった。目の前を飛ぶ夜の虫が妙にゆっくりと中空を切っている…自分の腹の中でどのくらいの光る酒が微笑んでいるのかも手に取るように男には『見える』のであった。

幾日か経ったらしいある日、ぼんやりとしつつも意識が自分の身体に収まるのを感じた樵は虚脱感を覚えつつも顔や手足を洗って件の旅商人の遺体の場所まで歩いて行った。正気に戻った今となってはそれを早く片してしまいたくて仕方が無かった。一人の人間を惨殺して、幾日も嬌声をあげて一人走り回っていた自分に身震いした。せめて躯を埋めてから酒を楽しめばよかったと後悔しながらその場に赴くと、寝転がったままの旅商人を揺り動かしたところ…樵はぎゃっと悲鳴をあげて仰天した。
それは旅商人の衣類をそのまま纏った大きな藁人形だったからである。

あの旅商人はエテ者だったのだろうか?
自分が酒を飲むように仕組まれたのだろうか?

いくら考えても山で起こる怪異の意味などが人間風情に理解できるはずもなく樵は手樽に残った酒を確認した。すると傾けた手樽の中でゴロンゴロンと何かが動くのが分かった。動くと言っても自ら動くのではなく何かが酒に漬けられていたらしい…好奇心がむくむくと湧き上がり酒の事とあってか抑えきれず、盥の上に手樽を置くと蓋に木槌を打ち込んでそれを外し、光の水の中で黒々と浮かぶそれを手でむんずと掴んで樵はまた叫んだ。それは確かに女の生首であった…男は反射的にそれを持って小屋の外へ行くと森林の只中へ思いっきり投げ捨てた、耐えきれない嫌悪感に叫んでいた。
「俺はあんなものを飲んでしまったのか!」
それなのに光る酒を欲する自分を恐ろしく思った。

なかなか里に帰ってこない樵を訝しんで女房が山に入ってきたのはこのことが起こってから早幾月か過ぎてからの事である。旅装束をした樵の女房は親方に連れられて山深いこの地へと手土産の酒を携えてやってきた。小屋には特段変わったところは無く、樵本人は仕事へ出ているらしかった。女房は親方に礼を言うと小屋へ入って夫である樵の男を待った…それからまた幾日か経って親方が小屋までやってきて当の樵に訊ねた。
「御新造さん、お前が里へ帰らないんで泣いて心配していたぞ?木に親しむ気持ちはわかるがたまには帰ってやれ」
何気なくそう言ってまた帰ってゆく親方の姿を見ていた樵は急いで森の奥深くへと分け入って行った。そこには手製の樽が作られており、中には哀れな女房の生首が薄く発光する酒の中にぷかぷか浮かんでいたのである。

「許せ、お前」

男はそう呟くと早速光る酒の造酒に取り掛かった。旅商人から奪ったこの酒から元々入っていた生首を投げ捨ててしまってからというもの、酒は日ごとに光らなく、ただのそこいらの酒へと劣化を始めていた…どうやらこの酒に神秘を添えているのは生首らしい。そうとわかると男は取るものも取り合えず一目散に首狩りをしたい気分で、内心頭が割れそうな具合であった…山に通りかかる人間を獲物を待つ畜生のように目を光らせて待ったがこのような山奥、一向に誰も現れなかった。試しにいろいろなものを入れてみた…猿、鹿、鳥…入れないよりはマシと見えて死骸を入れると酒はわずかに光の度合いを取り戻すのだった。しかしそれもたった幾日かで消えてしまうので次はあれその次はこれといったように必要に駆られて獲物を殺生しては酒に投げ入れる日々が続いた…そんな時に自身の女房がやってきたのである。

特段恋女房というわけでもないこの女の生首を酒の妙薬にすることは、酒に狂ったこの男にとってみれば当然の理になってしまっていた、むしろ縁もゆかりもない人間に迷惑をかけるより、手近なこの女を片す方が理にかなっているとさえ思えた。

そのうちに酒造りの樵は大きな酒樽をいくつも作って光る酒を大量生産し始めた。ただしそれには宿命的に生首が必要であった…なかなかこのあたりに女がやってこないので仕方なしに、ついに自らの矜持を折り曲げ、山を行く見ず知らずの行商人たちを殺しては入念に洗い清めてから光る酒に漬けていった。男の生首の醸された酒なんぞ飲めるかと樵も思ったがそれが光る酒である以上文句は言っていられなかった…数樽にその樽数の分だけの生首が入れられた。それでもまだあの味に足りないような気がした。

この光る酒を飲んでいる間じゅうは比喩でも何でもなく空を飛んで行け、山脈中のすべてを見渡せた…よって誰がどこに居るのかを把握出来、酒樽をいかに増やそうと生首が不足することは無かったのである…。

しかし困ったのは光る酒に対してどんどん耐性がついていってしまう事であった。最初は一口で脳天を突き抜けるような光を感じ、また実際に発光していたのにも関わらず今ではしたたか酔ってもあの発光感覚を得られにくくなっていたのである…葉の葉脈のひと脈ごとに自分の目を宿らせる研ぎ澄まされた勘ははや日常と化していたのに、快楽や愉悦などというものがちっぽけに感じるほど強烈な爽快感をもたらす月のような発光感覚…あれが得られないのだ。

ある時少しだけ趣向を変え、密造酒の作り手であるこの樵は自らの光る酒を特別に作った風呂釜風の大樽へと注ぐと自分もそこへ裸で入り、酒風呂と洒落込んでみた…意外にもこれは強烈であった。毛穴の隅々から光が入り込んでくるその歓喜に声をあげないでいられないほどであった。森林に男の、ともすると泣き声にすら近い喜悦の声が獣の遠吠えのように響き渡る日々が続いた。声にすら光が宿るのを見ながら男は、最早人間であることを脱ぎ捨てていた。

さて、樵も女房もはたりと姿を消した事についてさすがに放っておくわけにもゆかない樵頭である親方は、嫌な予感を拭えないまま重い足取りで小屋までやってきた。森は何かを飲み込んで微笑んでいるかのように彼には感じられた。勘のよい彼は部下を幾人も連れて行った…一人だったら腰を抜かすかもしれない凶事に出会うのを予感しており、それをなんとか人数の多さで気を強く保ちたい欲求に駆られていたのだ…まだ昼間だというのに妙に薄暗く、脳裏には煌々と光る満月が浮かんで離れなかった。
…妙なのはこの幻想を『見て』いるのが自分だけでなく、部下の樵たち全員が小屋の近くに来た途端「お月様が見える」と口走ったことである。全員とも顔を見合わせて呟いた。
「エテ者か?エテ者がいるのか?」
しかし怖いからといって逃げ帰るわけにもゆかない。月の光がどんどん強くなったのは小屋からだいぶ離れた森の奥深く、大木の根が絡まり合い、隆起した地面の凹みからであった。嫌な予感はこれだ、全ての元凶と言うべきものがここに在ると親方は悟った…覗き込むと人一人がゆうに入り込めるほどの大きさの木樽が十ばかり並んでいて、中から薄明かりが漏れている…その一つだけ蓋が外れて中の光が黄色く漏れていた。全員とも息を飲んでその蓋を開けると中には例の樵が素っ裸で酒に浸かって死んでいるのであった。

幾代経ったかは不明だが男は酒の中で生き続けた。身体は酒に溶け込んで時空を超えていた。
…ある時大飢饉が起こって『自分』が振舞われるのを男は感じた。光る酒が山を越え谷を越え数々の農村へと運ばれたのを男は果てしない命の向こうから見つめ続けた。
葉脈を一つの道とすると人間の血脈もまたひとつの道中である事を、神の視点とでも言うべきところから男は観測していた…ずっと昔に脈打つのを止めた男の体は未だ酒に漬かっていた。隣の酒樽、やはりこれも酒の中から首だけになった女房が時折話しかけてきたりもした。殺した者どもも頭だけで、酒を振動させて男に話しかけるのだった。彼らは意識の存在となって酒に宿っていたのだ。そこには負の感情は何もなく、常に全てを超越した快楽があるだけだった。
酒を保存し続けたのは樵組合の面々だが、彼ら自身はこのおぞましい酒を『禁酒』と称して一滴も飲まなかった。親から子へと代が変わると『人間の命に対して強すぎる酒、神の酒』とこの死体入りの光る酒は彼らに畏れ敬われるようになった。
酒そのものでありながらも同時に山脈のすべてに宿るこの酒漬けの死者…かつて自分の殺した者たちに恨み言を言われるかと思いきや、酒樽の中の彼等全員とも、満面の笑みを湛えているのだった。
こうして時は過ぎ去り、この光る酒はいくつもの干ばつを救い、山を荒そうとする浅はかな計略を阻止し、幼子の命を救っていった…。
果たしてこのために山の神はエテ者の姿を借りて俺を唆したのだと男は悟った。
人間個人を超えた大きな目で見れば救う事のために俺は殺しをさせられて酒を造らされていたのだと人ならざる彼らはこの時に至って初めて心底理解した。時代は下り、ついに最後の一滴になった時に男の精魂は尽きた。酒として第二の生を送っていた間は全てが全能状態で完全な快楽と歓喜にあったがその長すぎる悦びの最後に男がつぶやいたのはたった一言。

「これで許されたか」であった。

無論その絞り出すような声を聴いた人間は居ないが、最後の一滴となった光る酒が鱗粉を撒くように宙を漂ったのち、音も無く消えたのを見たとある女は、密かに酒を造るようになった…。