ようこそ暗夜へ

少し以前、他人事とは思えない絶望感を垣間見た。知り合いの知り合いのそのまた知り合いの御母堂が耐えられないほどの無常観を覚え、それが為に命まですり減らしていると伝え聞いたのだ。私は居ても立っても居られなくなり、知り合いに頼んで一冊の本を彼女に手渡すように促した。しかし現実的に考えて知り合いの知り合いのそのまた知り合いの御母堂というのは最早見たこと会った事も無い世代も違う赤の他人である。その人に向かって『虚無感がどっと来る』事について心底共感する等と言ってみても、図々しいというか、ちょっと場違いな感じさえした…しかし慎み深くしている事自体は何の影響力も及ぼさないのである意味では傍観という悪でさえある。なんとか、彼女に共感とその悩みは深い暗夜であり、そこに灯る小さな蝋燭の光を見ること自体が、詩作であれ短歌であれ絵画であれ音楽であれ、創作者の宿命なのだと私は伝えたい。(その方は短歌を詠んでいるため。)人間一人の出来ることはあまりにも小さく、そして気が付くと早数か月の命になっていたりする、ああ、わかる、わかる、わかりますとも。それに何というか…そんな絶望感覚を八十に近い齢になっても『まだ』『生き生きと』感じられるものなんだなあと思うと妙に嬉しいとさえ感じたのも事実。悩み苦しみによって人間は人間たる存在となる、愚鈍であれば悩むことさえしないしあの手の絶望が何なのかさえ理解しない。目が覚めても寝ても続く焦燥感と諦めはやがて諦念へと変わる…もっとも哀しいのは絶望や諦念それ自体は何の意味も成さないということだ(それが心底わかるから苦しみは拭えないのだが)、だからこそ…逆説的ではあるがこの種の苦しみに関してこの苦しみが何かの利益になるだとか、苦しみを希望に変えようなどと無理矢理に悲嘆からその人を離れさせようとしてはいけないと私は感じている。苦しみに対してはとことん苦しむより他無いのだ。その人がまだ子供だろうが幼かろうが若かろうが、かの御母堂のように余命いくばくもない人であろうが表面上だけ取り繕ったり再起させようと強要してはならないと私は思う。絶望のまま死に至るということさえもその人の在り方なのだ。しかし!またここで究極に逆説的なんだけれどもだからこそ、ほとんど同質と思しき絶え間ない悩みに対して共感を示したり、おそらく諦念の先にあると思しき不可知世界について話したり、書籍を紹介することは非常に役に立つと私は考えている。とか書くといよいよ宗教臭くてかなわないが、私の言っているのは個人観での話。無論、その種の書物を読んだり悩みに共感している人が居るとわかっても絶望感は消えないだろう。基本的にはたった一人で悩みぬくより他無いし、何故だかこの悩みに招かれてしまう人というのは昔から居て、それを的確に示している具体例を挙げると、私の個人的に大好きな十字架の聖ヨハネというキリスト教の聖人である。彼はこの絶望感を『暗夜』という言葉で示した。じゃあ彼の書物を読めば悩みは減るかと言われるとはっきり言って否である。同じ体験をしたと思しき体感を得るに過ぎないし、私には聖人という区分がいささか受け入れ難い、その一方で、もっともっと果てしなく深いところで全くの自分とも言える人を見つけたような安堵感とが混在する感覚を抱くのは事実だ…それはまさに、かの御母堂についてもそうなのだ。他人事とは思えないのでどうすることもできないのがよくわかる。だから彼女が苦しんでいるという事を伝え聞いて私は少し安堵した。せめて証明不能な世界についての本を紹介するだけでもさせてくれ…そんなこんなでその女性には私の知人からご子息経由で一冊の本を紹介した。でも敢えて私はこう言いたい、年齢も序列も超えたところで聖人に肖って、本当はこう言いたかったのだ。

『ようこそ暗夜へ』

※ちなみにその方に紹介した本は十字架の聖ヨハネとは全く関係のない本である。