散文詩【毎晩繰り返してきた動作を】

毎晩繰り返してきた動作を老年の男はその日に至るまで繰り返した。死に支度をするように歯を磨いて、経文でも読むように安寧に本を読み、身体を整えてさあもう死ぬ時間だ、今日の自分が終わる時間だと布団に入ったら…ああ、靴ひもを結っていない事に気が付き、這い出して玄関まで行き明朝に履くであろう靴の紐を結った。頭では別の事を考えながら靴を揃えると寝床に潜り込んだら、ああ、今度はドアのチェーンまでかけてしまったことを思い出し再びふらりと玄関まで行き、ともすると悪質なチェーンを外した。こうしておかないと家人が帰宅した時に悲劇が起こる。頭はもう寝かかっていて昨晩見た夢を思い起こしており、身体は数十年分の疲れがどっと出ているらしく重いのだが、この経年質量に相反して動作そのものは老体の割に機敏であることを男は…まるで前世の自分でも見つめるように満足げに微笑んでいた。と今度は凄まじい衝撃音が家に響いてはっと心身ともに目が覚めた。何かが家の窓にぶち当たったらしい…とっさにありもしない空爆の映像が脳裏に流れる…それは俺の人生で起こったことではない、死は、俺の人生では起こらない、老いた男は自分に言い聞かせ、しかし雨戸を開けて確かめるのも億劫なのでしばし逡巡しつつ居間をぐるぐると徘徊した。仕方が無いのでドアを開け外へ出た、狭い通路を通って衝撃音のしたと思しき場所へ行くと鳩が一羽…おそらく家の雨戸に思いっきり衝突したと見えて既に息絶えているのを発見した、このままにしておくわけにはいかない、男は雑巾に鳩を包むと近くの公園まで歩いて行った…男は死んだ鳩を抱えながら思った、まだ暖かい、でも死んでいる、俺も眠っている時はこんな感じだろうしひょっとするともうすぐ死ぬのかもしれない。不意に、自分はこのまま家に帰らず何処かで首でも吊るのだろうかという想像に苛まれ、男は動揺した。さっさとこいつを土に還しちまおう、公園の傍の茂みの中の土を軽く掻き分けるとそこに鳩を置き、上に落ち葉を沢山かぶせた、鳩は目を瞑っており、その姿は何処か心地よさそうにすら見えた。死神に頼めるんならこんな風に眠らせてくれと言いたいもんだ、全ての眠りがこのようであったらいいのに…こんな風にため息をつき、そして同時に毎日毎日繰り返す種々の動作を最早繰り返したくないような気がした。明日目が覚めてもやる事は同じ、明後日目覚めても同じ、曜日によって若干異なるだけだ。社会そのものも、その実家人すらも俺を必要とはしていない、俺はただ居るだけだ、ただ居るだけ、それはこちら側からのみ希う一つの要求に過ぎなかった。もう起きたくないな…死神が居るんなら来てくれないかな、どうして自分がそこまで急激に暗転したのかをこの年老いた男自身理解していなかった。男は長年実社会で働いて来たし退職後の現在も内輪と呼べる仲間すらも居た、社会的な居場所のある老人であった。しかし頭の奥底で何かが泣きわめいているのだった、もうやれることが無い、お前は何の助けにもならないと暗に漠然とした人間の塊に示されているように感じて、打ちひしがれている所が確かに自分にはあると男は自覚していた。その暗部を鳩の死骸が刺激したらしい。ああ、ああ、ああ…声にならない叫びは一種の嗚咽となり夜の公園に木霊し、それを薄汚れた中年の男がビール缶を片手に見ているのを感じてぎょっとした。老年の男は唐突に自分が寝間着であることに気が付くと一目散に帰路に就いた。横をスーツ姿の男たちが無言で通り過ぎてゆく、人間の波はすっかり世代交代し、最早自分の知らない世界のようでもあった。家のドアを開ける、一瞬、鳩は何かを知らせるためにこの家の雨戸にぶつかって来たのではないか?ノアの箱舟めいたこの家に何かを知らせるために…そしてまた自分が家を空けたその隙に何者かが家に侵入したのではあるまいかという幻想に囚われた、いかんいかん歳を取ると疑心暗鬼になるもんだと老いた男は自分を嗜めた。よく見ろ、と男は自分に言い聞かせる。とそこにさっき用意しておいた翌朝用の靴がきちんと揃って置かれている…まるで微笑んでいるようだ、靴が微笑んでいるようだ、それを見て男はようやく安堵した。少なくとも明日、この俺を待っている一側の靴がある、これで何処へでも行ける、この靴は防水だし自分は健康だから目の前の川だって難なく渡ってゆけるんだ、少なくとも、この家に帰ってくる家人のためにやるべきこともある、少なくとも…鳩も埋葬したのだ。世界の動きに自分もゆっくりと一緒に踊っているではないか…男は何かを悟ったかのように丁寧に手を洗い、慎重に口をゆすぐと、ついに安心して無自覚ながらも最後の眠りについた。