ああ、どうしたらいいんだろう…『ああどうしたらいいのかしらあ』隣の個室から響く見知らぬ老婆の声に私は用を足しながら狼狽えていた。駅ビルの個室トイレ、何の変哲もない2020年代の我が日本国の個室トイレに於ける珍事に私は対処しきれずに居た。いや、一つ訂正せねばなるまい。何の変哲もない個室トイレ…ではなかった、駅開発に関わった者どもの中に、デザイン性だとか新しさという上っ面だけを追い求めるたわけ者が居たに違いない、その女性用個室トイレは少し変わった形をしていた。厳密に言うと個室が四角く区切られているのではなく扉は湾曲していて弧を描いてスライドさせて閉めるようになっており、当の私も戸惑った。あれ?普通のトイレとは違う…そう思いながらもその丸型の戸を、普段感じない遠心力に違和感を覚えつつも何とか閉め、鍵をかけて用を足そうとした…その時にこの閑散とした駅ビル女性用化粧室へ、ぶつぶつとか細い声で独り言を言いながら入ってくるものがあった。件の老婆である。
『ああどうしたらいいのかしらあ…』
おそらく私同様、デザイン性と目新しさだけでこさえられた恒久的衛生器具の扉に当惑しているらしかった。しかしその声が妙に揺れているのが気になった、まるで平静ではないみたいな発声だった。老婆は誰かの名を歌うように呼んだ。『助けに来て頂戴』こちらも用を足している最中ではあるしすぐさま飛び出るわけにもいかない。老婆は呟きながらも隣の個室に入り、どうやら戸を開けたまま便座に腰かけたらしい…用を足す音が聞こえる。こうなってくると外へ出にくいもので私はしばし逡巡したが万が一他にも待っている人が居たりしたらそれこそ迷惑だろうと意を決し、扉を開け、真っ先に洗面台へ向かった。幸いにも老婆以外誰も居ない。だが、すぐ後ろに戸を開けて用を足している赤の他人が居て、しかもその人は扉を一応は閉めようとしているこの状況…迷った、赤の他人とはいえ女性同士なのだし助けるべきか?戸を閉めてやるべきか?ただ老婆の様子から察するに彼女は少し呆けているようだ。少しというか衣食住を誰かに手伝ってもらわねばならない程度には認知症が進んでいるように見え、しきりに誰か女性の…おそらく娘と思しき名を呼んでいた。女の性に於ける一番の重要度は【選択】である。取捨選択だけが女を女たらしめる…何が言いたいかというと老婆は娘を選択しているのであって、このようなプライベートな場に、たとえ女同士であろうとそもそも部外者などの立ち入ることを老婆自身が求めていないのだ。この尊厳を踏みにじって、おばあちゃんに親切をする、という行為を実行した場合、法的な物事はどうあれ本人にとってみれば極度の嫌悪感を生じさせるに違いなかった。女の性というものの丸半分は取捨選択にそぐわない存在への嫌悪である、それくらいこっちも女なのでわかる…私はちらっと振り向いた。老婆は扉を閉めたり開けたりしている、よしんば閉めてやったとして今度は出られなくなる可能性が高い。
トイレ、というある種の緊急時用かつ人生を通じて使用する用具は普遍的でなくてはならない、普遍的に【すべきである】とさえ私は言いたい。何故扉を湾曲させたのか意図がさっぱり掴めない。省スペースになるわけでもない、何の役にも立たない変更を加えるなクソ馬鹿め、と私は見ず知らずの駅開発化粧室建築係を罵った。身体が不自由だったり認知症を患ったりしたら新しいものが受け付けなくなるのは自明の理だろうに。
見られたくないらしい老婆をこれ以上凝視するのも可哀そうなので、人の居ないのを幸いに私は外へ出た。化粧室の外には小さな待合所めいた空間があり、そのベンチに娘と思われる壮年の女性が腰かけ、たまに化粧室の方をちらちら顧みていた。私は彼女に声を掛けまいか迷った。とその時老婆がほうぼうの体でトイレから逃げ出してきた、その壮年女性にしがみつき震える声で嘆いた。『あのトイレ、少しおかしかったのよお、扉が閉められなかったの、呼んだのに何故助けに来てくれなかったの…知らない人も居たのよ、こわかったわ、嫌だったわ』老婆は自分の娘に心情を訴えている。だが娘らしい人物はため息をついて遠くを見やっているだけだった。介護疲れ…なのだろうか?他人に心を開かず自分にだけ甘えて来る母親にうんざりしているようにも見えた。ひょっとするとほんの一時でも一人になりたくてわざと老婆を一人で用足しに行かせたのかもしれない。ちなみに同じような現象で子供がそうなっていることもある。電車の中等で好き放題騒ぎまくる子供を、何処かでは自分が諫めたり世話したりしなければならないのを理解している様子の保護者が…その場ではわざと突き放すようにして、無意識的には全くの赤の他人に厄介者をおしつけるようにする、そんな母親を、私は度々見たことがある。
ここで介護者とか保護者を単に責めるのは筋違いだ。しかしながら現実的にこういった時に決断を迫られるのは実はこの場に於ける私のような赤の他人だ。みんなで育てようとかみんなで助けようというのは言葉にすると容易いが、何よりも助けられる本人がそれを全く望んで居ない事が忘れ去られている。これが同じ村とか同じ血筋とかいう一種のわかりやすい運命で一蓮托生されているような仲であれば、双方嫌々ながらも助けやすいし助けられやすかろう…しかし実社会は違う、偶然隣り合わせたとか意図せずに居合わせた他人にいきなりすべてが降りかかってきたりする。でもこれを災難や迷惑の一語に押し込めてしまうのはこれまた間違いだ。誰しも生きている事そのものが迷惑そのものに過ぎないからだ。結局私はこの件で表面的には無関心を決め込んでしまった。当の私も杖をついていたし老婆の排泄介助出来るほどの身体ではない。そして老婆の娘である女性をわざわざ呼びに行くのもどうかと思われた。お宅のお母さまが扉を開けたまま用を足していて見ていられませんからはやく来てください、と言うのは何だか、公共的な美にそぐわないものをどうにかしてくれと頼んでいるようでもあり、それはお節介を超えて過度に神経質な要求にさえ思えた。慎みに重きを置くのならば化粧室での珍事には首を突っ込まない方がいいに決まっている…このように、関与しない理由はいくらでもある。
でもやはり…やはり、あの時、本人である老婆に大丈夫ですかと一言くらい声をかけてやるべきであったと、今では悔やんでいる。