知らない人との平和感覚

花壇をやりはじめてから知らない人との交流というものを知った、ああ、もっとみんなに優しく振舞うべきだったと反省している。みんな、というのが果たして誰を指すのかというとみんなはみんなである、全部である。
知らない人と交流したときにだけ通電する場所が脳みそには在る。
知らない人というのは、完全に知らない人でもいいし、顔だけなんとなく知ってる人でもいいし、気配だけ知っている人でもいい、とにかく内輪での仲良しではない人だ、こういう人に素直に接することが出来るようになるとこんなにも世界が開けるのだということを恥ずかしながらこの歳になるまで知らなかった。

私の世代では誰もがそうだと思うが『知らない人と挨拶してはならない』と口酸っぱく教えられてきたし、つい誰かと話そうものなら親にこっぴどく叱られたりする、知らない人からのアクションは原則全て無視せよ、そして自分の能力だけを開花させよとほとんど洗脳に近い状態で教育されてきた。

しかし世界は知らない人だらけだ。世界中の全員と『互いに』知り合いになる事は不可能だ、『内輪の仲良し』になる事も不可能だし無意味である。となると困るのは、世界は敵だらけという事だ。知らない人は『善い人か悪い人かわからないから接触を避けよ』…この教えを順守する場合世界中の人と接触を避けなければならない。ネットなら、アカウントなら誰が何を考えているのか…つまり『自分にとって善い人か悪い人かわかるから、善い人と、内輪で仲良くし、その内輪を広げてゆく』、こんな風に考えている人も居ると思う。

ただ、それでも我々は腐っても物理的存在であるので、個人個人の表情や立ち振る舞い、内輪ではなく『外部に対してどのような心情を示すか』という事や、体臭や服装に至るまで…全てを以て他者に何かを表現せざるを得ない。だからいくらネット社会…つまり匿名の内輪社会になったからといって、個人個人が根本的に自分以外の外部とどう接するかといった生物存在としての必然部分は消えたりはしない。

学校や職場というのはその実内輪社会である。その内輪での立ち位置や振る舞いというものは外部に対するそれとは異なる。
職場での大人しい人が外部に対してもそうであるとは限らないし、その必要はない。
私は長年これが解らなかった。

そして自分の能力の開花というものに関しても大きな誤解があった。花壇をやりはじめてから気付いたのだが、人が喜ぶことをやらない限りほとんど意味は無いのだ。これも言葉にしてしまうと大変自己犠牲的というか偽善的、嘘くさい感じがしてしまうのだが…それでも、歩くことをはじめとする種々の特技は、突き詰めると自分を含め周囲の喜びになったときに初めて、それが意味のある行為に昇華する事が出来る。

これは何も自分を押し殺して善行をせよとかそういう話ではなく、善行というものは基本的に自分も嬉しいものなのだという事に気が付いたのだ、しかも喜びというものは決して静かではない、むしろ五月蠅いくらいのもの、アグレッシブるなもの、能動的なものなのだ。

庭をやりはじめてから数年経つが、この特技が人を喜ばせるためのものだったことをようやく理解した。植物と土の関係を理解して造作が出来るという事が、外部の為になるから喜ばれ、喜ばれることがこんなにも嬉しいとは今まで知らなかった。
それと同時に、自分が(内輪ではない外部の)他人を避けていたのも、自分に技量が無い事を暗に恥じて、誰とも接しないようにしている部分も一因としてあるなと気が付いた。

ひょっとするとみんなそうなのかもしれない。

自分なんかが、と思うからどんどん隅っこに行ってしまい、誰も喜ばせることが出来ないのを余計に恥じるようになり、そのために能動的にならないといけないのをひたすら恐れるようになるから、大声や、アクティブな振る舞いに危機感を抱くようになる。
この危機感を脱すると、素直に静かな状態や一人の状態を楽しめるようになる。

例えばゴミ拾いに関しても、私は『歩けるうちに、歩くという特技を使って何かしておきたい』という想いがある。歩けなくなる予定は無いのだが歩けなくなる可能性は高い方であるのでそういう考えに至ったのだ。
自分の出来ることが自分の為だけでなく誰かや何かの為になるのは案外、すごく嬉しいもので、この素直なうれしさがゴミ拾いの対価である。
同じように花壇も、喜んでもらえることが嬉しい、私はかなり多い返礼を受けている。

与えれば与えるほど恩恵を受ける仕組みがあるのだなと感じている、死ぬまでの目標として、今は他人にさっと料理を振舞えるようになりたいと思って居る。

以前は怖かったし苦手でしかなかった『知らない人との交流』が、今は好ましいとさえ感じられるのが、私には嬉しい、平和という感覚はこういうものであると今は判る。