私は中東政治はおろか世界の政治についてもどうしようもなく疎い、それなのにタリバンが奇しくも8月15日という日にアフガニスタンの首都カブールを制圧したというのを見聞し、何だかソワソワした、まるで物語でも見ているみたいな気分になったのだ。
よってここに記す発言は全く無責任で、かつ恥ずべき無知をも曝してしまうわけで、自分でも抑えようとしているのだがやはりちょっと書いておきたい…ので、これはあくまで無知蒙昧な年増の主観的な独り言という事を明記しておく。
さて、何故武装勢力が政権を掌握した件についてソワソワしてしまったのかというと、この地域は長年我らがアメリカ様が監視してきた地域である。今のカトリック大統領はどういうわけか彼らを見るのに飽きたようで、その結果武装勢力が増長したようにも見受けられるが…それでも思うのだ。
世界の警察を自称するアメリカ主義に真向から反対する新勢力が本当に武力で一つの地域の権限を持つに至ったという事自体が、なんだかすごく『面白く』感じてしまったのだ。これはもう善悪だの、その地域からとんでもない数の人民が脱出を試みているという悲劇的状況だのは度外視で、単純に『およそ弱いとされたもの、世界の基準から外れる者が、世界の基準を自称する強者に打ち勝った』物語のように感じられたのだ。
タリバンを名乗る人々の画像や動画を見ていてもやはり、多くの人が…戦争が起こって大変だという道徳概念に相反して、『全くアメリカナイズされていない文化を生きる人を見たときに感じる純粋な面白さ』みたいなものを潜在的に感じてしまう。
今や世界のどこへ行っても、人々は大なり小なりアメリカ的な気風を纏っているし、世界の基準に合わせようという試みの真っ最中であると思う。ただ、このタリバンの人たちを見るとそうではない、そうではなくて何か…新約聖書以前のもの、触れてはいけないもの、キリスト教の外側の世界を完全に選択して生きている様子が覗える。
ドル以外の価値観。
白人以外の価値観。
カッコいいとか素晴らしい、新しいとされるものとは真逆の価値観。
『ジャグンソだ!』と思った、ああ、タリバンの人たちを見たときに感じた戦慄はこれだったのかと納得した。頭にターバンを巻いたり長髪にしたり髭を生やし、微塵もヨーロッパ風ではない服に身を包む人たちを見たとき、私はある小説を思い出していたのだ…それは『世界終末戦争』19世紀に実際に起きたとされる内戦の話で、ジャグンソというのは反政府武装勢力の人々を指す言葉として小説内で使用されていたものだ。
舞台はブラジル、『もっとも貧しい人たち』からなる無法者の群衆がカヌードスというほとんど木も生えていないような内陸の場所に一つの小さな国家を築き上げ、それが社会現象となったために政府軍が無法国家を結果的には叩き潰したのだが…。
物資に於いても弱い人々が勝つわけがない、世界を飲み込む資本主義の風潮に対抗できるはずがないと思われた人々が、一時は政府軍を打ち負かし、独自に兵隊員制度を作り出した。武装した反政府軍をジャグンソと呼び、そのジャグンソらは見てくれからして一般の美とはかけ離れたような恰好をして、制服をきっちりと着こなした政府軍を次々とやっつけていったのだ。
何故内戦になったのかと言うと、飢饉や旱魃が重なって国民が窮していたことは事実だが、根源的に言うと『資本主義制度に従わなかったから』である、世界の風潮に逆らって独自の信念を突き通し、その中心人物である預言者を崇めていたので『世界に従わない狂信者の群れ』という事で殲滅させられた。
無論これはマリオバルガスリョサ個人の小説の話で、本当の所はわからない、だが『公』とされるものから『悪』と見なされる存在は大抵、公の価値観を全く無視する存在なのだ。公の価値観を否定したり無視したりする集団が大規模になり、一つの小さな国家をも形成するようになるといつのまにか戦争が始まる、自分らを無視する存在を排除するための戦争が、公と称する側から始まるのだ。
こういった大規模な視点から見ると、戦争というものは必ずしも反平和なのではないという結論に至る、ものすごく不思議だけどやっぱりそうなのだ、個人個人の理念は必ずしも全体主義ではないはずなのに、ある程度の全体主義に従わないといけない仕組みがある…この矛盾を思うと、いずれ国家というものは無くなるのかもしれないと感じる。
さて、小説から話を戻すと、今現在の平和というものはアメリカ的なものを迎合することに在るように思われる。アメリカが私にとって悪かというとそうではない。米国株にも形だけ手を出しているので儲けるという概念は大好きである(残念なことに資金そのものが無いので全く儲からないが…)。
ただそのアメリカ一つをとっても、『僕は君たちを忘れていない』という白人至上主義大統領の言い分も、実は弱者側への思いやりに端を発している。公の真逆とされた人たちがアメリカの半分ないし数分の一を形成している…南北戦争で負けた人たちが、アメリカの陰であり、見捨てられた人たちであり、見捨てられた白人なのだ、その人へ向けての『忘れていない』が、先の白人至上主義大統領を生じさせた。私が漠然と思い浮かべるアメリカは結局、南北戦争の勝者たる北部エリートたちに過ぎない。
日本人にとってもそうだが、負けた側にとって戦争の記憶と言うのは何故か不可思議なほど遺伝子の中に受け継がれる。
アメリカ南部の人にとってはそれが南北戦争だし、タリバン勢力にとっては…具体的にそれが何時何処の地点の戦争を指すのかは私の不勉強により不明だが、感情的理由は『負の存在だとされることへの反発』だろうと察する、負けた側の意地という意味では同じことだと思う。
負けを知っているもの、あるいは公とは真逆の者特有の匂いや雰囲気がタリバン勢力にはある。
イスラム原理主義勢力に加担する国外人があるらしいが、その気持ちはなんとなくわかるし、仮にそういった人たちの文化的ルーツを辿れば、案外負け戦を知っている民族だったりするのではないか?
そして日常レベルでの勝ち負けを我々は小さいころから強要させられてきている。勉学をはじめとし、小さいころの人格形成は…学力至上主義の昨今では勝ち負けに負うところが多いような気がする。私も勉学も運動も仕事経歴も芸術表現も何もかも、清々しいほど負けてきた人間であるし、数字をあげるとか成功するという事自体に全く興味が無くなるほどに勝つということに縁遠い。だからタリバンという反(北部)アメリカ的な存在を見るとなんとなく心が動かされてしまう。
つまり『公』の文化(白人、アメリカ北部エリート的なもの)から見て『その他』に該当する人ならば、今回の武装勢力政権掌握という現象に心の何処かで…ほんのひとかけらだけ、共感してしまう部分があると思うのだ。
世界の全部が『公』を目指し、その一番近しく『目指すように諭されている』状態のアメリカ南部の人たちのフラストレーションをはじめ、私自身も『何故世界の基準を目指さねばならないのか?』という疑問は終始渦巻いている。
中東の『ジャグンソ』たちがどのような国を立ち上げるのか…それが数世代を経て尚受け継がれ、もう一つのスタンダードになるほどのものになったらどのような世界が訪れるのか、少し気になっている。
※この記事は、避難民の人が可哀そうとか、そういう当たり前の倫理観は度外視して好き放題に書かれています、悪しからず。