自己実現を目指せとよく言うが、無自己実現を目指せとは誰も言わない。
最近、無自己実現を体感するためにゴミ拾いやら花壇やらをやっているのではないかとようやく察知し、しかしこの事について固有名詞が無いので勝手に無自己実現と名付けた。
自己実現、というものは自分の名前や自分の人格や数値など…第三者が見てもわかりやすい形で成功か脱落者か判別がつくものを指す。自己実現という一種の思想体系がここ半世紀ほど強まってきているように思う。
芸術をはじめとして、何か自分だけの特性を第三者が強く理解し、尚且つそれが金銭という数値でも強く現れたら万々歳、というようなわかりやすい教義だ。
この思想のいいところは…この思想は確かに的を得ているということ。
この思想の悪いところは…いささか短絡的過ぎるという事、そして敗者を作り出す仕組みが在るので全体全部の幸福になりにくいということ、芸術などは元来そこまで製作者を崇めるものではないのではないか?という疑問を生じさせること等である。
この幸福思想と相対して無自己実現という思想(概念)があると私は思って居る。
自分『自己』である必要は無いが、人類や地球という規模の大きなものに触れ、現実的に関与し、大きな意味での幸福を『自己』なりに進めている状態を指す。
この思想には残念ながら舞い上がるようなときめきは無い。
固有名称も不必要なので、自分が愛される喜びというよりかは、自分(ほとんどそれが自分だと感知しないほど薄められた自己)が静かにすべて(地球とか)を愛する喜びといったものに近い。
当然ながら数値化することも不可能で、他者に無自己に関与している喜びである以上、あまりにも静かで、社会的地位などにも全く繋がらない。
そんな悲しいほど存在感の薄い、しかし人格を大きく寛容にさせるような感覚が本当にある。
さて、ゴミ拾いをしている時、私は不思議な心境に陥る。
世の中の綺麗なものを見ずに敢えて汚らしいものを直視するわけだから当然、気分が最高潮というわけにはいかないし、無益な事をしている感覚も実際にある。
しかしゴミというものや、ポイ捨てが悪かというとそうではない、むしろきちんと働いて製品を製造したり真っ当に販売したりした結果としてゴミはばら撒かれる。
全ての仕事に卑賎なしとは言うが…私は過剰梱包だとか過剰な小分け包装を推進している企業は、さっさと潰れるか方向転換して量り売りなどをメインにしてほしいと思って居る、はっきり言って無駄な働きをしている。
そして小さいころから競争し、勉強のできる事だけに価値を置き、そこにだけすべての子供を集中させているのだから当然敗者も多く生まれる。
敗者とされた人々のフラストレーションはどういった形で現れるか?
ポイ捨てである…全部が全部とは言わないが、明らかに貧困者の捨てたゴミと思しきものが多い、カップ酒にタバコと菓子パンの組み合わせを恵まれた人がやるとは思えないんだよなあ。
だから私はあまりポイ捨てをする人を責められないのである、肉体と頭脳に恵まれた人は品行方正である確率が高いだろうが、それは別に賞賛に値する事ではなく、単にそのほうが過ごしやすいからそうしているだけであって、ポイ捨てでフラストレーションを発散させている人とて、そのほうが過ごしやすいからそうするより他にないのだ。
しかも、ポイ捨ては、それが即座に土に還るゴミであればそこまで問題ではない、植物とか、木の実であれば別に捨てたっていい…現に自然世界はそう動いている。
こんなことを考えながらゴミを拾うと、慈愛というような不可思議な感情が芽生える。
それは決して華々しい幸福感ではない。
辛いような感じもする、しかしこの辛さが自分という自己だけの辛さではなく、人類の辛さという感じがするという点に於いて、大きな自己を見出したような気持ちにもなる。
そして自分というものが消えてゆくような感覚にもなる。
それが嬉しいのだ。
この幸福感、この自己実現感覚についての名称を私は知らない…これは別に私である必要は無いので、匿名というよりも無自己な感覚が強く、従って無自己実現と表記した。
人間は本当は無自己である喜びを多く感じられる生き物なのではないか?
無自己実現について何故語られないのか?
何故この静かな喜びが不人気なのか?
これは俗にいうランナーズハイとは全く違う。
疲れたり、大量のゴミを引きずる時に感じる肉体的超越感覚ともまた違うのである。
実に普通に、地味に、しかも問題を直視したり、むしろ嫌なものに触れている不快さのある中で生じる小さな神秘感覚である。
他にもゴミ拾いをしている方々が居るので、彼らもきっとこの種の至福を味わっているに違いない。
幸福の在り方としてわかりやすいのは自己実現を筆頭に、富や相思相愛といったものだが…
この地味な幸福の味も、もっと多くの人に広めたいものだと、私は思って居る。