法律は順守すべきか?

秋の空が私を呼ぶ、次の花壇の支度をしろと私を促す…。今年の春から唐突に始めた通りの花壇は爆発的な人気だった、地域の人ともさわやかに交流が出来るのでメリットしかない。ここまでメリットしかない創作物というのも稀なんじゃないかと思う。さて…ここで私の言う花壇というシロモノは、私道の緑地部分に花を植えた状態のものを指す。私道なので刑罰も無く済んで居るのだが厳密には、花壇にした緑地部分は東京都の所有地である。

そう、私は都の土地を勝手にいじくり回しているのである。ここが私道でなく市道や公道だったらもうアウトだったろうな。

私とて住み始めてから5年はさすがに都の土地をこねくり回すような真似はしなかった…その手つかずの5年の間、どうだったかというと荒れ放題の緑地は私道にはみ出す形で駐輪されまくり、ゴミも捨てられ、駐輪ならまだしもそれに紛れるように放置自転車が置かれ、休日ともなると野鳥爺(失礼)が朝から昼まで弁当を広げて居座り、それを邪魔に思う自転車乗りがベルを鳴らしていく…要するにクソな様相を呈していた。文字通り犬のクソも置かれたりして散々だった。

人間は人の手の入っていない『人工的な土地』を最も軽視する生き物らしい

この緑地は私道に面して設けられたただの空き地である。元来街路樹が植えられるべき場所に何故か何も植えられていなかったのが風紀悪化の原因であった。

そこで、市に問い合わせて街路樹を植えてくれないかと頼んだところ、その他の空き緑地には見事に植林してくれたのだが、何故か自宅前の呪われた緑地には…都の土地だから出来ないという謎の理由で、土が入っているにも関わらず植林を断られたのである。

…仕方が無いので市の職員に、『私が勝手に何かを植えてもいいか?』と直談判するに至った。というのも、現にそのような意味不明の理由で植林を断られて空き地化している土地に植物を植えている人が結構居るのである。そしてここは戸建て住宅街であるので、団地や都営やアパートにありがちな、みんなが平等でなければならないとか、勝手に空き地を弄るなという共産主義的な同調圧力が弱いのである。

戸建て住宅地域というものにも初めて居住したが、本当に資本主義的というか、個人主義的でびっくりした。と同時に、おそらくだからこそ…放っておいたり自閉的であるとどんどん『土地が』見下されてゆくという意識があるのかもしれない。良くも悪くも根源的な部分で弱肉強食思想が強く、何もやらないんだから他人に好き勝手にされるのは当たり前…という空気があるようにも思われる。正義の種類が私の育った団地地域とは異なるのである。

市の職員からの『半承諾』を得た私はさっそく緑地部分を耕し、自宅の庭で溢れかえっていた植物を移植した。これは本当に生まれ変わるぐらいの覚悟を要した、というのも自分の正義の基準を明らかに変えねばならなかったからである…半分違法であっても自分の家の目の前の土地を開拓してゆくのが正しい事で、自発的と見なされるのである。そして自発的な事は基本的に善なのだ。

はじめのうち、私は多くの人に怒られると思って居た。『そこはあんたの敷地ではないだろう、何故勝手に手を付けているんだ』と文句を言われると思って冷や汗をかきながら作業した。それは内心、自分の声だったのである。…実際には、私が目の前の家の住人だと解ると、話しかけてきたすべての人が肯定の意を示したのだった。勿論本当はアンチ花壇派というか、平等思想に於いて私の都の土地侵害行為に異を唱える気持ちの人も居るだろうとは思う。だがここではそれは正義ではないので、それを直接私に言う人は今のところ皆無である。

郷に入っては郷に従えと言う善とも悪ともつかぬ諺があるが…私にはこの経験はいい薬になった。何故かと言うと結局、自分が『自分個人の選択で』世界に関与するという実体験こそが、生きている上でかなり必要なものだとわかったからだ。自発性を鍛えないと世界に対して善意すら示せないのだ。ゴミ拾いや環境保護(保護という言葉に引っかかりを感じるがそれは省略する)も、これらが独善である事も承知だが、やらぬ善や完璧な人格、完璧な法律順守の尊さをいくら詮議したところで世界に関与する事から身を引いているのであれば全て無意味だからだ…。

花壇作りが成功したと感じるのは、元々は私はこの緑地部分の存在を厭わしく感じており、最早駐輪禁止の看板でも置いてやろうかとすら目論んでいたのだが…今ではこの緑地をとても愛していて、事によると自宅の庭よりも愛していて、人が立ち寄るのが嬉しくてならないからだ。人が来るのが以前は嫌だったのに今では人というものを好きにすらなっているからだ。人を喜ばせたいという気持ちになっているからだ。

こんなにも自分を変えてくれた法律違反行為を、どうして悪と言えよう。

そして強く感じるのが、自発性の高い状態を肯定し、自発性の高い状態で他人と接すると、必然的に双方の活力が高まる気がする。だから花壇やゴミ拾いというと静かで地味でいかにも、中高年の趣味という感じがするのだが、実は非常に…一種の攻撃性?も含んでいる行為だと実感している。攻撃というと誰かを傷つけているような響きがあるが、例えて言うならばそれは鳥の力強い羽ばたきや、水しぶきのようなもの。なくてはならないこの世の原動力を体感している。

次は何を植えようかな…?