つまり、私は河川を愛しているのだ

不思議なのは、私が決めた近所の川のゴミ拾い曜日には、何故かいつも水位が平常時に保たれる。前日に土砂降りで冠水寸前、歩ける岸辺も全て水の中…ということになっても、翌朝、つまり私がこれと決めたゴミ拾い曜日には、川はいつも通りに戻っているのである。

ああ…この川は私を必要としてくれている、もしくはゴミ拾いという行為を超自然の意志で理解してくれている…!!という客観的には完全に関係型妄想の様相を呈している私の脳みそなのだが、対象が自然存在であり、関与の仕方もゴミ拾いなので取り立てこの妄想を悪にする必要も無いだろう。

たまに、私は狂っているのか???と思う事が昔からあるが、逆にこのような感覚に一度も陥っていない人のほうが狂っている気もするし、狂っている事自体はそこまで責めるようなことでもないという結論にたどり着く。

川には薬のゴミも落ちている、ワイパックス、マイスリー、レンドルミン…これらは検索してみればわかるが精神薬や睡眠薬だ。それが川に落ちているという段階で、この程度の処方は患者…というか人間の幸福にとって大して意味を成さないという表明のような気がする。それが朝の光を受け、朝露を浴び、ここに在るよと何らかの信号を発している。キラキラ光る銀のフィルムを鳥が誤食したりするとすごく嫌なので拾う。

川に落ちているゴミというのはこんな風に独特の悲しみを帯びている。最終的な悲しみの受け取り手に私はなるのだ、それは一種の覚悟かもしれない。これが最後の段階、自分の心情は投げ捨てる、誰も気づかないと思って居ても、こうして誰かには通じてしまう。

おそらく私しか通らない緑の絨毯の、小さな階段へと通じる獣道。一週間でだいぶ様相が変化する。ここには実は小さな川らしきものも流れているのだが…理由は定かではないが数か月前から枯れ始めている。単に雨水が流れていただけで、それを堰き止めたのかもしれないが…それからというもの、草の生え方が例年とは異なって丈の短いものばかりになっている。歩く分には楽だが、動植物にとっては生態系が変化するほどのストレスなのかもしれない。

人間の小さな行為や選択は周囲に影響を与える。私のゴミ拾いもそうだ、自分がゴミ拾いに異様に執着しているのには理由があるのでまた別の機会に書くが…ポイ捨てゴミ自体はかなり減った。わかりやすい物に関しては減った。では何を拾っているのかと言うと上流から流れてきた不織布の切れやマスク、プラスチックがマイクロプラスチックになる過程の状態のゴミ屑を拾っている。これが案外沢山ある。

川辺や海の土の層を見つめる機会があればやってみてほしいが、土の層の中には最早取り出し不可能なほどのゴミ屑が紛れ込んでいる。もう本来の土というものが無くなり始めているのではないかという焦燥感に駆られるほど、砕けたゴミカスというものが地球を覆っている。不織布は全く土に還らない。

不織布が環境に優しいとか言ってる馬鹿(失礼)はこの現状を見て欲しい、プラスチックと比べて環境にやさしいとか焼却可能だから云々というのだけで安易に『エコ』だの『環境にやさしい』だのと言わないで欲しいものだ。川岸に行くだけで大量に異臭を発している布切れめいたこの繊維素材を目にするたびに疑問が募る。…とは言え雨水排水溝の巨大な柵に引っかかった大量の不織布+プラゴミ屑を処理するのは私には到底無理だし、濁流が流れ込んできたら一巻の終わりなので手出しを躊躇う。私が出来るのはせいぜい近隣の川岸や、河川に流れ込むであろう大通り幾本かを清掃することくらいだ…。

そんな諦念が渦巻く中、『今日は川のゴミ拾い日か』と思いながら早朝の川岸へ行くと、昨日までの大水がすっかり引いているという現象が起こるのである。そして私は何かを確信する。『これでいいのか、これをやればいいのか』無論答えなど無いのだが…これが私と近所の川、および河川全体との関係である。

つまり、私は河川を愛しているのだ。おそらく河川全体の方でも私を愛してくれている、言うまでも無く河川は誰でも愛している、終わらない不眠を抱える人のことも、不織布をせっせとこさえている工場も、それを風に吹き飛ばしてしまう人間のことも、全ての生き物の事も、川は全てを愛しているのだ。