雨の降る中をゴミ拾いすると泳いでいるみたいな気持ちになる。ゴミ拾いの良さについていろいろ書いたような気もするが改めてまとめてみた。
①【ゴミ拾いは認知行動療法+武道稽古】ゴミを拾うという動作は確認動作であり、認知行動療法的、あるいは武道の稽古のようなもの(ゴミという敵(仮)に対して自発的に始末するという凸行為であるため武道だと感じる)で、自分が今何をし、どちらの手を動かし、どのように体重移動させ、通行人や自転車の邪魔にならないように動けているかを常に確認しながら行う所作であるので、必然的に身のこなしに落ち着きが出てくる+筋肉がつく
②【道も綺麗になる】しかもそれがただの一人稽古ではなく実際に道まで綺麗になるというお得感!
③【内観鍛錬】しかも汚いものを直視する、人の苦しみや悲しみや歪を物理的に直視するという内観的鍛錬でもある
④【独特な幸福感】自然や土地と直に語り合えているような独特の幸福感を感じられる。
⑤【自己鍛錬】つまりゴミ拾いは私には、ゴミを拾う事で土地と対話できるおまけつきの自己鍛錬方法なのだ。あまり社会の為とかは考えていない。
まあ、挙げればキリがないがこんなところか。私は基本的にはポイ捨て行為をそこまで咎めたくはないし、ポイ捨てを悪だとは思いたくない、普通にやめては欲しいがそれ以上に社会の歪みを感じる。あと不可思議なのは、人間の汚したものを人間が綺麗にしているのだから大きな観点から見たらプラマイゼロであるのだが…ゴミ拾いという行為をした後に道を振り返ると何となくとてもキラキラしているように見えたりする。植物や土地も人間に対する愛着を持つのではないだろうか?という感覚さえも生じる。
特に①の認知行動療法+武道稽古の意味合いが私には強い。私は現在、長距離を歩く時には杖をついているので足腰は元来弱い方だ。にもかかわらずこっち方面の胆力は強いと感じていて、杖無しの時には結構無理をしてしまっていた。じゃあ無理をせずに、尚且つ自分自身のパワーを信じながら体を鍛える方法は無いだろうかと思案したところ、元々やっていたゴミ拾い行為を、杖をつきながら続ければいいのではないか?という結論に達した。
この事については特段整形外科医などには話していないし、彼らの言う通りにしようとも思わない。筋トレ等で股関節周りの筋力を鍛えろとは言われているが…勿論毎日の筋トレもやっているが、筋トレだけで杖無し歩行が出来るほどの筋力発達など…スポーツ万能でもない限り望めるはずが無いのだ、そして何の目的も無く筋トレだけをするのは精神的に結構きつい。痛み止め注射を生涯打ち続けるのもきつい。ゴミ拾いの場合は筋トレと組み合わせれば有酸素運動にもなるし、第一にゴミを拾うという目的と、実際に道が綺麗になるというご褒美もセットになっているし、それが自然にも善いのだから一石二鳥、一石三鳥である。
杖をつくというやり方で身体を守りながら、行為しながら鍛えてゆく。
あと、ただの有酸素運動の場合あまり確認作業が出来ない。私が鍛えたいのは『身体が在る』と感じられる動作を身に着ける事。自分がどんな動作をしているのかすら実感せずに居る人は結構多いと思う。でも、自分がどんな姿勢で、どんな動作をし、次の一瞬に何をするのかを常に認識し続ける訓練には、ゴミ拾いはぴったりだ。だから決してゴミ拾いは焦ってはいけない。例えば道路の向こう側に落ちているゴミがあったとしても急いで横断したりは絶対にしない。自分が歩行中の道であっても、ゴミ拾いと言うのはゴミの都合で蛇行してゆくので常に自転車や歩行者などの前後確認をする。
…身体が強くは無いので確認しながら体を鍛えるという動作が大事なのだ。身体が弱いので鍛えている。
今右手を動かす、左手が反動で上がりそうになるが杖で支える、ゴミを取る、足を出す、片足で踏ん張るが重心を足にかけすぎないようにする…所作が決まってくると細かなゴミが見えてくる。私は目が悪いのだが何故か『目ではなく身体が感知してゴミを拾う』という感覚に目覚めたので、実はあまり見ずに拾っている。そのような時に身体がただ漠然と有るというよりかは『在る』のだとわかる。だからこの感覚を鍛えている所が、ひょっとして武道なんかはこんな感じなんじゃないだろうか?と思うに至った。武道の側からすると…全く違ってるかもしれないが。

実際に見ている光景はこんな感じ、カメラよりも目が悪いのでもっとぼやけているが…決して華々しい光景ではない。だから一番説明し難いのが④の独特な幸福感についでだ、これは善い事をしている幸福感というわけでもない気がするのだ。誰にも声をかけてもらえない時なんかも、時に疎外感すら感じる時にも幸福感は内在している。ゴミの量が増えれば増えるほど変人度合いも上がってゆくので、私をホームレスのように思って居る人もいるのかもしれないし、わけがわからないと感じている人も居ると思う。
自分と土地が直に対話し、尚且つその土地に関与する大きな幸福感というか…。
これは、ポイ捨てが悪で自分が善とかの段階の話ではなく、もっと単純に郷愁というか、しかもそれが直に感応し合う感覚が芽生える状態。だからたまに私を見て可哀そうがる人や『大変ねえ……』と気の毒そうにする人に対して非常にもどかしい想いを抱く。彼らを気の毒がらせてしまってこちらも申し訳ないのだが…一番言いたいのは『本当はすっごく幸せなんだよ!!』という事。社会の為とか地域の為とかボランティア活動してます!という決まりきった台詞じゃなく…
『アタシ今、この土地全体と想いが通じ合ってるの!!☆』くらいの、ぶっとんだ感覚で、しかもそれがとても静か~で、地味に、音楽で例えるならベースの音みたいに基準の波長を発しているんだよなあ…。
花壇の場合は私の幸福感がすぐ伝わるので周囲の人も安心(?)してくれるが、ゴミ拾いは他人に伝わりにくいのが難点。
この一人稽古…ゴミ拾いの次の精進段階は、私がもっと楽しそうにすることなんだろうな。楽しそうにするってのが一番難しいが…頑張って楽しそうにする、かな…?ゴミ拾いは嫌な事ではない。ゴミ拾いは私にはボランティア活動ではなく鍛錬趣味である。もっとゴミ拾いの良さ、身体動作の稽古になるなどのメリットも伝わればいいなあ。