コロナ前とコロナ後で暮らしが変わったかと言うと、私の場合あまり変化はない。コロナが流行ると同時にマスクは着用するようにしたが、それが丁度2020年の初夏あたりで、その時に私は(長距離歩く時は)杖をつきはじめた。杖をつくのが恥ずかしく、後ろめたく、痛み止めを打って頑張れば杖をつかずに済むのではないか?とすら考えていたが…結果的に杖をつくことによって歩行距離が延び、ゴミ拾いも続けられているので万々歳だ。ただ、もしコロナ(それが人災にしても)が起こっていなかったとしたら…私は杖をつくことをもっともっとつらく感じていたと思う。
大勢の不幸が自分の不幸を緩和してくれるというのは…実際には、差異を減らす錯覚なのはわかっているのだが、確かにそのようなものの見方をしてしまう部分が私にもあって、マスクをつけてみんなが息苦しい思いをしている中ならば、杖歩行もそこまで目立たないので辛くない、と感じてしまった。
これが一番、コロナという災禍に於いて私が罪悪感を抱いている事だ。経済的に打撃を受けたという人や、社会の風潮としてとても陰鬱とした空気が蔓延しており、たぶん近隣にも苦しんでいる人が居ると思うが…それなのに、私個人としては、コロナのお陰で杖がつきやすくなったので心理的に助かった、こんな風に言うのはホントに気が引けるが…。
ただ、コロナというモノがこんなにも人間を支配してしまう現象を引き起こすのは何故か?と考えた時、その原因に…まさにこの『他人との落差や差異が苦しいから大多数が少しくらい苦しんでくれた方が個人的に楽』という気持ちを抱く人が潜在的にとても多い時代なので、差異や落差に苦しむ人の意識がこの災禍を長続きさせているという部分もあるのではないか?という結論に至った。
悪く言えば『人の脚を引っ張る心理』がコロナというモノを助長させていると言ったらいいだろうか。
私も、こういった性格の人に攻撃されがちなので、自分にもこの部分があるのをとても残念に思う、それでもやはり、いざ杖をつくという段階にきてどうしても同年代の人間の大多数が羨ましくなった。杖歩行を決意したとたんに当然ながら選べる仕事も減り、痛みが軽減した分だけ収入も減った。生涯このぐらいと決めていた貯金額などには到底及ばない、というか老後はどうなるのだろうという不安は否応なしに増したし、解決もしていない。もっともこれはコロナ前からであるので、コロナという災禍が訪れたとメディアが騒ぎ始め、実際に街がどんよりし始めた時に、私は確かに『安心』していたのだ。
みんなが不幸でよかったと心の奥底では感じていた…と思う、少なくとも『コロナというモノがやってこなければ、私はもっと杖歩行を嘆いただろうな、もっときつかったろうな』と感じたのは事実。

人が不幸と呼ぶものの正体は劣等感、および疎外感である。不幸を緩和させるためには皆が同じになるのが一番手っ取り早い、みんなが苦しい思いをして(それが息苦しさにせよ)不幸になれば、自分はこのままで幸福で居られる…そんな心理を私は理解出来る。
もしかすると世界中、競争社会による歪が生じ、こんな思いを抱いている人が多く居るのではないだろうか?一つの敵と戦うとみんなが仲間になるなんていう理屈以前の…みんなが不幸になれば自分の不幸が目立たなくなるという、社会の歪み、抑圧された声が各々からほとばしり出て、しかも不幸ほど儲かるものはないわけだから、結果的にコロナ禍という災厄が長引いているのではないか…?
この種の災厄の元は、ウイルスというよりも埋められない疎外感、劣等感を何とかしたいという想いなのだろうと私は感じている。だとすると私もこの災厄に加担した一人である、これは否定できない。
私自身、自分の中の劣等感や、稼げなくなっていることからのコンプレックス等から脱却出来るだろうか?
何も恨まずに生きることが可能だろうか?
劣等感克服が各々にとって可能だと思えた時にこそ、おそらくどんな災厄も(現実にそれが起こっていたとしても社会現象には至らないという意味で社会からは)消失するだろう。よってコロナは心理の病なのだと感じる、コロナは…早い話が人類の精神疾患だと、私には思えてならないのだ。