マスクを外して生活します

9月の菊の節句あたりからマスクを外して外出するようにしている。ハッキリ言って全然大丈夫だし、今まで挨拶してくれていた人たちも態度を変えたりせず、今まで通り接してくれている、有難い。というかノーマスクの人を見かけるとなんとなく心強い気もする…が、マスクをしていない人って何故か人と群れない雰囲気を発しているので互いに親しみを込め合ったり等という交流は皆無である。

マスク派⇒集団を好む

ノーマスク派⇒一匹狼

敢えてこのように書くのは、マスクというものがいくら【科学的根拠のない】【呼吸を害する】【形式だけ】であると解っていても、マスクをつけている者同士の謎の連帯感が割と強かったと感じられるからである。何故なら、実際にやめなければならないと察した時に私が一番に感じたのが、善い人という役柄ももう終わりかあ…という一抹の寂しさだった。マスクをつけているだけで『空気を読んでいる』雰囲気が出せるので、マスクをつけて花壇だのごみ拾いだのをやると、それなりに交流が生まれたのである。 このご時世にこんなこと言うのも躊躇われるが…たのしい夏だったな…。

マスクを外す理由として以下のものを挙げる。

①鼻中隔弯曲症(奇形)で片鼻が元来あまり機能しないので結構息苦しい

②マスクをつけてゴミ拾いをしていたら二酸化炭素中毒と思しき激しい頭痛+眠気を覚える日々だった

③どう考えても不潔(使い捨ての場合も数時間着用だけで菌温存庫になる)

④杖歩行を恥ずかしがるという幼稚な心理から早く脱却したい

⑤マスクを外したい人に外していいよという意思表示をしたい(マスクをつけろという圧力に加担したくない)

マスクをつけていないと同調圧力が~という話もあるようだが、私は杖歩行になってからというもの、内職こそやっているが基本的に何処にも属さない人、いわゆる無敵の人なので、そもそも同調するアテも無い。そして…認めたくないものだが、同調圧力という言葉にはほとんど必ず自分が善い人で居たいという保身が含まれている。だから同調圧力が苦しくて出来ない、みたいな外部的要因で【間違った事】をするというのは、単なる言い訳に過ぎないよなあ…と、とても身に染みて思う。

私は子供のころから根暗な変人だったので、大多数から見ると常に異質な人、ある意味本当に自分勝手でわがままな性格を周囲に見抜かれていた、よって当然、自分が善い人や正義に見られたり、自分に人が集まってくるという経験自体が皆無であった。

だから、杖歩行を隠すための隠れ蓑としてのマスク…それが汚く、呼吸を阻害するとわかっていても…マスクを着けていた夏の間は『大多数にとっての善人となる事がこんなにも楽しいのか』と仰天するような心理的変容を体験した。マスクを【心理的・衛生的に悪いと解っていながらも着用】していたのは、早朝は主に高齢者の時間なので彼らに合わせなければいけないという変な思いやりに依っての事だ…ただ、本音を言うと私自身が善い人に見られたかっただけかもしれない。お陰で夏中、私は『とても善い若い人』で居られた、地域という人間関係の中でこれほど人気者(?)になった事は未だかつて無い。イイ人っていいもんだな~と心底思った。

悪人か善人かを選べと言われたら何の迷いも無く善人を演じることを選ぶ。私は本当に普通の人間だと思う。

ただ…マスクは二酸化炭素濃度が上がるので全く以て身体に良くない。建物内は、建物という人工物に自浄作用が無いために不潔になりがちなので、飛沫を飛ばさないようにするのがマナーだという『文化的思想』は十分理解出来るが、それらなら換気を良くする以外に方法は無いのだ。呼吸を阻害してまで得られる健康等というモノは幻想でしかない。

それに、コロナ(風邪)を引きやすい人というのは居る。

弱い人というのは居る。風邪をこじらせて肺炎になる人も居る。死ぬ人も居る。

だからといって弱い人に合わせても、弱い人は強くなんかならないのである…例えば世の中の全員が【杖歩行を強制】されたとしたって、【私自身の脚はちっとも改善しない】のである。弱い人が弱い人として生きている現状は、他人の健康を阻害したところで変えられない。コロナに罹って死ぬ人は死ぬのである。それは私かもしれない。しかし…それを回避する為に呼吸を阻害してみたところで何の価値もない、苦しいだけである。

自分が弱い人間だからこそ、大多数が弱い人に合わせる事を美化するこの欺瞞にはうんざりするのだ。

特に子供の呼吸器官なんてのは未熟なので本当にマスクはやめたほうがいいし、勝手な事を言う様だが親なら身を呈してマスクを外させた方がいいと感じる。

現実的にこういった物事について、私自身他人をどうにかしようなどとは思わないが、だったら私自身が自分の考える本当の善い事というものを、自分自身で実行するだけの自由は基本的人権によって守られていると思うし、私が自分で実践しなければならないと強く感じているので、マスクを外す事にした。もう杖歩行が恥ずかしいという段階も通り過ぎたので、マスクからは卒業すべき時が来た。

とは言え、私はテレビを見ないのでわからないが…飛沫による感染だという刷り込みが激しいらしく、最早飛沫恐怖症という一つの精神疾患を一大事業として国が作り上げたようにしか見えない映像が繰り返し流れているようで、同じ種族の、生きる上で普遍的に行われて来た【口元を出して喋る】という行為自体に恐怖心を抱いている人も大勢いると思う、彼らを責める気はない。なのでバスや公共機関ではマスクをつけて『あげる』ことにする。これはもう科学ではなく、倫理ですらなく、単なる【精神疾患を患った人に過度な刺激を与えないように】するという意味で着用する。

ちなみに、テレビというのは小学校高学年くらいの精神年齢を対象に造られているらしい…とても納得できる。

何故かと言うと当方が小5~小6の時に、かの、オウム真理教事件があり、私はワイドショーに釘付けになった覚えがある。小学校高学年時、テレビのニュース以上に頭を沸騰させるような面白い物は無かった。テレビのニュースは事実を元に制作されているという時点で、そこいらの子供だましの映像作品とは全く違う!リアリティが違う!…という風に感じていたものだ。

それが中学に上がったあたりで唐突にニュースや流行にぱったりと興味が失せ…以来世捨て人のように世の流行り廃りに全く疎いまま来てしまった。流行歌とかも馬鹿らしく感じたので私は同年代の歌手というものも知らないが、その代わり自分で探し当てた洋楽の音楽家なんかは知っている。自分で探すという事が面白い物事として機能する年齢に達したのだと感じている。

あと不可思議なのが、子供特有の正義概念に『みんなと一緒だと正しい』という謎の共産思想的心理がある。子供の頃ってみんなが平等じゃないと何だか許せなかったなあ…『みんな我慢しているのに一人だけ我慢しないなんて許せない!』とか…これが子供というモノだ。子供は兄弟と争う生物的宿命があるので、争いによる落伍者となるリスクを減らすために、本能的に子供の倫理観というものは共産思想なのだと思う

みんながマスクをしなきゃ駄目!

みんながワクチンを打たなきゃ駄目!

自分だけやらないなんて許せない!

こんな風潮はまるで子供のHR、学級会の様相である。ここまでしか考えられない人がさらに酸欠マスクを着用し続けて呆けてゆくのは皮肉すぎるし、端的に可哀そうに思う。

マスクをつけるかつけないかは、改めて言うまでも無く本人の自由である。私は、アクリル板同様、マスクというモノは科学的な意味ではなく、単なるお守りだと考えている。慎ましさを象徴するお守りだ、このお守りを無暗に馬鹿にしてはならない、そこに科学的根拠が皆無であっても、むしろ有害であっても、本人がこれと決めたものには効力が宿ったりするものだ…顔を隠したって痛みは消えないが、股関節の悪い私もこのお守りに一年以上もの間縋っていたのだ。しかし…

マスク着用に於ける風邪予防というのは、健康な人に杖歩行を強制したり、睡眠を削ってまで健康体操を強要するような素っ頓狂なものだ。

こういった事は個人の好き好きにやればいい事だ、他人に強要しない限りは基本的人権によって人の個人思想は守られているのだから。

ただ、じゃあ実際に害になると身を以て体験した人はどうすればいいのかというと…やはり最低限、換気率100%の屋外ではマスクを外して生活すべきだと私は思う。金銭的理由の絡む職場での着用や公共機関での着用は(メディアの作り上げた飛沫恐怖という精神疾患(群集心理)により)やむをえないが、それ以外の個人的な場に於いて、単にイイ人で在りたいばっかりに本当の事をやらずに居るのは偽善であると感じる。

マスクを外して早朝ゴミ拾いをする、あたり一面に金木犀の香りがうっすらと漂っている、その空気を思い切り吸い込む。木々の浄化作用は凄まじい。…みんな吸ったらいいのにと心底思う。この空気にはコロナに罹った人の呼吸も含まれている、当然世の中の全ての害も含まれている、当たり前だ、しかし我らは呼吸する、それを新鮮なものとして体内に取り入れる。今、生きているのだ。