早朝、マスクを外すようになったが本当に意外な事に、高齢の皆さんは相変わらずにこやかに接してくれる。齢が上がれば上がるほどマスク着用率は増えるのだが、彼らの大半は全く態度を変えない。
つまり、自分とは違う思想や違う振る舞いをする相手を完全に許している様子なのだ。
朝にすれ違う人の自由さというか、頓着しなさ具合を見ると、本当にこの世で疫病が流行っているのかすら謎に思う。あまりにも諦念しているのか、あるいは死の間際の年齢(すみません)でガミガミと人を誹るのを心底避けたいのか、自分が行う事と他人が行う事に差異があっても気にしない(ようにしている)のかもしれないし、単にすごく自分の現状に満足しているので他人はどうでもいいのかもしれない…にしたって優しい人が多い。
私はもっと覚悟していた。この前バスを待っている時にマスクを(公共機関では一時的に着用するため)顎までずらしていたら、絵に描いたような老婆に『マスク!!マスク!!マスク!!!』と叫ばれた。振り返ると…杖をついたヨボヨボのマスク着用老婆がこちらをすごい形相で睨んでいる。正直、こんな心境+老体+醜い表情になってまで自分の生にだけ固執し、そのために周囲の人の歓びを奪うっていう思考回路は理解出来ない。私はこういうのがもっといっぱいこの世に居るんだと思って居たが、今のところマスク警察と化した高齢者の存在を確認したのはこの一件のみである。そしてこちらも杖をついているので、おそらくその事自体に腹が立っているらしいのも察せられた。
『若いのに杖なんかついて!!』
という暗黙の怒りを受けることがしばしある。このために外出を渋るくらい、ある。ちなみにこの前私をつけ回してきたのも杖をついた初老の男だ、杖つきは自分より軽度の杖つきを憎むのである。
同族嫌悪というか、私はこの種の嫌な事をもっと受けたり、言われるのだと覚悟していたが…どうやら老人にも二種類在るらしいということが最近わかって来た。
・年を重ねるごとに周囲を許す心境に変化してゆく人
・年を重ねるごとに恨みつらみ、僻みっぽくなる人
体があまり健康そうでない人にも、信じられないほど穏やかな人はいて、やはり早朝にそういった人が出現している。何でかは不明である。寸度のためのマスクなのか、私の前ではマスクを顎まで下げてにこやかに話をする高齢の人も居る。
つまり、高齢者でも先のマスク警察老婆とは真逆のタイプも居るということだ。散歩中、有酸素運動中にマスクをしてたまるか!といった意識の高そうなオシャレな老婆もちらほら居る。老婆というのは不適切な気がするほどに若々しいので、彼女らの事は高齢女性とでも言うべきか。中には当方のように、健康には呼吸が欠かせない、ウイルスや菌はどこにでも在る、自活力を高めないと話にならないという意識を持ったうえで敢えてノーマスクを貫いている様子の猛者も居る。人間、年齢じゃないね…。
なので皆が皆テレビだけを妄信しているとも限らない、だが早朝すれ違う高齢者の人たちは、確率的に言えば『コロナ恐怖心理』を散々煽られている割合が高いはずである。とはいえ今時の老人であるので、情報源がネットという人も居てもおかしくはないが…それでも割合で言えばコロナを恐れていたり、飛沫を恐れている人が居るはずなのである。しかし特段誰も態度を変えないのだ…自分と異質な健康法を信奉する相手(私)を心底許している風なのである。
私は、それが心底凄いと思う。
勿論、マスク着用か否かは、屋外だから誰も何も言わないというのも理由の一つとしてあるかもしれないが、それにしたって全く嫌な顔をしないというのが彼らの凄いところだ。(まさかとは思うが早朝にすれ違う高齢者のほとんど全員が、その実、マスクというモノを心底役に立たたない呼吸を阻害するだけのものと知った上で、飛沫恐怖症を患っている同年代の高齢者への配慮のためだけに、マスク着用しているのだろうか?ひょっとするとほとんどの高齢者がこんな心境でマスクをつけているのだろうか?だとすれば彼らのマスク未着用者への優しい態度も、私のような凡人にも理解出来るが…。)

水の垂れる場所にだけ生い茂るシダ植物。たとえばこういう草だって、自分の為に根を張り、自分の為に酸素を出しているのだ。これが健康の大前提だ。
ウイルスから守る、というよりもむしろ、健康を作り出す事に重点を置くのが生物の在り方だ。飛沫を飛ばすからすべての活動が駄目、呼吸を自粛しろというのは本末転倒だ。今現時点で健康である人は、自分の健康を自発的に追及するだけの権利がある。その権利の中には呼吸することも当たり前に含まれていると私は思う。
疫病が流行ったからとて、全ての生き物に息をすることをやめろと言うのだろうか?私はそんな事を言う高齢者にはなりたくない。他人が自分の健康を害する、しかもそれが自然発生的な行動によって害される等という事はあり得ない。病気に負けるのは自分のせいだ。これは残酷なように思えるかもしれないけど、私が不健康な股関節しか手に入れられなかったのはやはり、誰のせいでもない。(分け合っているとは思う。例えば私の代わりにダウン症などを引き受けている人も居る、この点に於いて、私は自己責任論を述べているわけではない。しかし健康さや肉体を、現在の地球上の皆で分け合うという思想にしても、それを現わそうと決めたのは本人の意志であると考えている)だからこういったことに関しては恨みっこ無し、イエスキリストの言うように『神の御業が現れたに過ぎない』のだと心底思うようになった。
早朝すれ違う人が何を考えているのかはわからないが、彼らが笑顔で、人を恨む様子の無い事、そして人を許しているのが、対面するとありありと伝わってくる。こういった…生身で、リアルに満ち溢れる心、愛のようなものに接すると、世に溢れかえっている世論というものがいかに嘘かわかる。嘘に対して我々は怒り、嘘に対して虚無感を覚えているのだ、嘘に対して、心底無駄なエネルギーを使わされている。
凄い人たちに私は接しているのかもしれない、接するまでは彼らが何故、謎の活力状態にあるのか不明だったが…今は少しずつわかるようになった、健康とは即ち毎日作り出すものなのだ。朝の人たちに本当に感謝している。あの人たちは…はた目にはまったくそうとわからないが…実はすごい資質を具えている。自分と違う人を許せる人格を具えているのだから。