アダムとイブに石を投げるよりほかはないのだ(穢れ思想について)

潔癖思考の人間と分かり合えないと前々から思っていたのだが、此度の肺炎風邪騒ぎにてそれが顕著になった。

モノを綺麗にするには殺菌したほうがいい、これは理解出来る。まな板やテーブル拭きなんかは殺菌したほうがいい、臭う衣類なんかも煮沸したほうがいい、これは理解できる。まな板や布類は生きていないので自活能力が無く、菌類のなすがままにされてしまうからだ。

しかし人間をはじめ『生き物は滅菌しては駄目』である。

モノ→食物→植物→動物(人)この順に、殺菌してはならない気がしている。

モノと生き物の境界に食物があり、例えば発酵食品を作る場合でもなるべく飛沫が入らないようにした方がいいとは思う、何故かと言うと食品そのものが自活しているわけではないから、雑菌は減らした方がいい。しかしさらにその延長線上の植物となると最早自活して生きているので殺菌滅菌は元来タブーであるように思う。生食をしなければ農薬を使わなくても食べられるんじゃないか?

潔癖思考の人というのは『モノと生き物』の区別がつかないんじゃないか?と勘ぐっている。

まな板を煮沸消毒するように赤ん坊をアルコール消毒したら駄目なことを、彼らがいまいち感覚として掴めないらしいのを前々から感じていた。

シャーレの中を除菌すれば『一時的に』滅菌される。その一時的に滅菌された状態が『良い』と感じてしまい、ついつい『モノが清潔になった』状態を『生き物』(子供)にも当てはめてしまうようなのだ。

ではモノと生き物の違いは何か?自活しているかいないかである。モノは様々の外的要因に対しなすがままだが、生き物は菌類やウイルスをはじめ外気温やありとあらゆる外的要因に対し、常にそれらを『精査して取り込んで抗いながら』活動している、これが生き物というものだ。だからモノはある程度綺麗にした方がよく、生き物は必要以上に潔癖になってしまうとかえって『精査し取り込んで抗う』機能が働かなくなるため機能不全に陥る。

つまり、人間が人間らしくあるには、あるいは生き物が生き物らしくあるには、ほとんど必然悪としての抗うべき外的要因が必要なのだと私は感じる。ウイルスや飛沫を感じない限り人は他者を精査することが出来ず、常に精査し取り込み抗う機能が阻害されるため、かえって喜びをも感じにくくなってしまう。嫌なものに触れないことが幸福なのではない、何にも触れられないことが不幸なのだ。

このあたりの事を感じられるか感じられないかは、なにやら先天的な脳の構造働きによるのではないかとすら感じるほどに、話が通じない相手というのが潜在的には沢山いる。日本人に潔癖症が多いのはモノと生き物との区別を司る脳の部分が未発達なのではないか?島国で近親交配の臨界点に達しているので脳機能が不完全なのではないか?とすら感じる。そのくらい日本の穢れ思想は根深い。ゴミ拾いをしていてもやたらとこちらを拒絶してくる人というのが居る、まあ勿論どの国に生まれようがそんなもんかもしれないが、汚いものに恐怖感情を結び付けているのは地球上でこの国が顕著なのではないか?

日本に内在する穢れ思想については不幸中の幸いにも親が新興宗教に入っていたために、私自身は染まることは無かったが、穢れ思想自体がカルトのように思えるので、人と接していても根源的には『外国にいるような感じ』を小さいころからずっと抱いてきた。

この疎外感について特段不幸だと思った事は無いのだが…最近、アイスランドがワクチンを禁止し始めたり、デンマークでもコロナ規制緩和、イギリスもいきなりの方向転換ではあるものの、撤廃のムード。こういった情報を見ると思わず反射的に「もしアイスランドとかに生まれていたら、同国の人に対してここまで違和感を抱くことも無かったのかなあ?ゴミ拾いをしていても変な目で見られたりしなかったかも?周りの人の事を、同胞と感じられたのかな?」と思ってしまった。まあこの手の妄想は願望でもあるので、「もし〇〇だったら幸福だったに違いない」みたいな思考回路は、こんな中年になってくると恥ずかしくもあるのだが…それでも、大多数と同じような思想であることの安心感というものを、何故だか求めたくなってきている、つまり私も、濃厚接触者狩りがマジの話だと感じ、幾分弱気になっている。

しかしコロナ人災禍に於いてとても幸福だと思えることが一つある。それは『自分が選択している』ということを、未だかつてないほどに実感しているから。私はワクチンを打たない、それは私がウイルスに自力で抗いたいと思っているから、それが体感としての自分の思想だから。そしてマスクもつけない、私が自力で他人の飛沫をも精査したいと思っているし、第一に汚いと思っていないから、そして汚いと思っていないということを開示したいから、呼吸をしたいから。このように自分で感覚的に選択しているという事自体が『精査し必要なものを取り込み抗う』という健康の第一条件を満たしてくれる。そのことをここまで強く実感させてくれたのは、この人災のお陰?である。

このことを考えると、ワクチンを打とうがマスクをつけようが、それで個々人が『自分が選択した』と強く実感しているのであれば誰もが幸福なはずである。各々に幸福であればそれでよいと私は思う。

しかし誰が穢れをうつしたか、という思想には一切加担したくない。穢れは外から来るものではなく内から来るものだ。

かつて地球にタンパク質の泡のようなものが宇宙から飛来し、そこから生命が発生した、それらは雑菌となり、ウイルスとなり、はじめのうちは目に見えぬほどの菌類として生命活動をしていた。人間は腹の中と言わず全身全霊がほとんど菌類やウイルスの具現化のようなものでもある…と私は思うのだ、恐ろしいウイルスというものが実在しないとまでは言わないが、人は基本的に『死に抗って』生きている。そして自らも精査され、抗えなくなったら身体は朽ちる。それはだれの責任でもない。私の股関節が欠けているのは私が必要なものを取り込めなかったせいなのだ、勿論これらを、誰かが肩代わりしてくれていると捉えることも可能だ。

私の代わりに誰かが完全な骨を持ち、その代わりに誰かがダウン症になっている、どっちが尊いという話ではなく、単に、精査し、必要なものを取り込み、抗っているだけ…誰が誰にうつしたか、穢れの根源を責めるのであれば、アダムとイブに石を投げるよりほかはないのだ。