散文詩【天国についての考察】

水曜日と日曜日の祈りの内容ではキリストもマリアも天に昇ってしまう、地上に残された人々は悲しみに打ちひしがれていたのではないか?と思いきや、彼らはそれによって精霊を得ることが出来る、主体的に動くことが可能になった。何故か?それまではイエスキリストこそが主体であった。彼を見ていた多くの人にとって自分自身以上に彼こそが主体であった。その彼が居なくなることによって人々は自らこそが主体であることをようやく認識できたのだ。いわば自分以外のものは客体に過ぎない…では、天に昇ったキリストやマリアをどう認識すればよいのか?地上に於いては、自らに内在する道しるべのような存在だろう。では天に於いては?

天に於いては、彼らとついに同一となる。天国、というイメージは不可思議なほどに誰にでも内在しているが、そのイメージを突き詰めると主体と客体の同一化、主観と客観の同一化、すなわち自分と他者との線引きがついに消え失せる地点ということになる。パースでいうところの消失点、ここに到達したものだけが得る完全無欠な合一…これこそが天国である。誰も責められず誰も裁かれず満ち足りている…しかしながらここに到達するには一つだけ捨てなければならないものがある。それが「私」という主体だ。

断っておくと、天国にたどり着いたその時に私が消えるわけではない。もし完全に消失するのであればそこにたどり着いたかどうかすらも認識出来ないだろう。消失とは異なる。それどころか私という意識は拡大する…あまねく他者と判別がつかないほどに。

すなわちこの世をこの世たらしめているのは「私」なのだ、ではこの世に於いて私というものをいかに捨てる/あるいは広げるにはどうすればよいか?…おそらくその為にこそ、人は描いたり歌ったり踊ったり…祈ったりするのだ、詩歌はすべて根源的には天国を模している。そうして作り上げられたものの中に「私」は留まり、キリストとマリアを羨まし気に見ている。