チベット仏教中有イメージ(日替わりアクリル絵画)

『これが難関なのは、解脱と輪廻の道しるべが酷似している事だ。人の魂は強烈な輪を帯びた光を恐れる…それは畏怖と呼ばれるものに相当するとも言えるが…そちらに行こうとはせず、かえって微弱な光の方へ、惰性の方へ吸い寄せられ、また肉体を纏う羽目になる魂が多い。』

チベット仏教経典である死者の書を読んでみると、ともかく人間は強大なものを恐れがちで、それがために解脱出来ないと説かれている。なので死後何日もの間坊主が死体に付き添って、無論、死体にではなく魂に語り掛ける。魂は結構アクロバティックな世界に居るらしく、様々の幻影やあり得ないほどの広大な空間を彷徨い、強烈な仏の出現に戸惑う。

「それこそがお前の本当の姿なのだ」と現世から諭すのが坊主の仕事だ。

ちょっと疑問なのは、じゃあ中有(死後に滞在する魂空間)区域には坊主の魂は居ないのか?という事。まあそりゃ、お坊さんのような人はさっさと解脱の道を行くのだし、一応中有の期間も数十日と定まっているし、居続けたら地獄行きになるという設定らしいから、道しるべになることは出来ないのだろう。うまく考えたなあ。

つまり、中有空間そのものを確かめた人間は実は誰一人いないという事になる。だからこそ有るとも無いとも言える中間区域なのだが…

人間が死後の事を考えるときにはどうしてもつきまとう「設定」が、時に愚かに感じるのである。

これだけ斜に構えておいてなんだが、私自身は、生まれる前の空間や中有状態というものについては根源的に…というか普通に、その辺の住宅街や街と同レベルで、在ると思っている。