預言者ホセアは性嫌悪気質らしいな、とすぐに感じられるこの預言書。
基本的な内容は『神を顧みない愚か者をそれでも最後には許すが、でも神は大いに怒っている』という感じ。
その喩は大体こんな感じだ…『悪しき妻を娶り、他人の子供をもうけられ、散々な目に合うがその妻も子供も呼び寄せてそれを許す(でも許さない)』『淫乱でどうしようもなく、恋人の男たちもわんさかいて、阿呆のように子供を作る始末、しかも金も使うし色んな変な宗教にもどんどんハマる、こんな無茶苦茶な女は捨ててしまいたいが、それでも(許さないが)最終的には許すし子供も引き取る』なぜなら『男たちもまた聖なる神殿で遊女たちと戯れているから、誰もが穢れている、だから誰も彼女だけを咎めることはできない』…うわあこれ、読むの??と自問自答したくなる内容だ。
でもまあわからんでもない。性にまつわる汚さはわからんでもない。
ただ、品行方正だけが聖なる事だとも私は個人的には一切思わないので、私には実は此れを正々堂々と読む資格は無い…ような気もした。
また謎の反発心も生じる。果たして聖なる気持ちだけで異性を愛することの出来る奴が(理想の高すぎる童貞とか処女以外に)この世に存在するのか??ホセアさんよお~、アンタ、一度でも好いた女を抱いたことあんのか?等と唐突に預言者に絡みたくなってくる気持ちも湧いてくる。
そこでハタと気づく。…事の真意はそこじゃないのだ。預言者ホセアが言いたいのは『どんな最低最悪の人間をも最終的には神は許しているという事を伝えたい』はず。
まあ勿論ホセア本人は貞操概念ガチガチの本物の預言者だろうが…。
こんな風に性的な表現、もとい性嫌悪、女性嫌悪的表現はとても人を引きつけるが、私のような凡人はつい真意を見誤ってしまう。
言葉だけをそのまま述べてもダメだ。聖書で言う所の離婚に関しても、聖なる結婚という概念は勿論大切だが…聖書が記されたのはなんだかんだ2000年前である。その真意は何か?おそらく人と人との絆、でも単にいい人を演じるとか優しくするとかじゃなく、本質的な事を言えば自分の中の神との絆(つまり外部云々ではない)、これを軽んじるな…これに尽きる。
という事でホセア書は2章から4章まで『悪しき妻の悪行』から『(性別には言及せず)愚かな人が神を顧みずに、悪友と偶像崇拝にふけり、散々飲み食いをして金銀を使うが、神はそれをすべて見通された上でその人を許す(でも許さない)』という性別を超えた普遍的な人間的内容へと、独断と偏見で大いに改変させてもらった。
ご了承いただければ幸いです。
サムネイルは(1章から、悪しき行いの結果の子供を引き取るというくだりからはじまり、神は結果的にどのような子も愛されている…と連想できたので)
『13章8節わたしは子を取られた熊のように彼らに出会って、その胸をかきさき…』
からイメージし、熊にしてみた。