旧約聖書朗読【アモス書】見よ、ひとかごの夏の果物がある…

8:1主なる神は、このようにわたしに示された。見よ、ひとかごの夏のくだものがある。 8:2主は言われた、「アモスよ、あなたは何を見るか」。わたしは「ひとかごの夏のくだもの」と答えた。すると主はわたしに言われた』

他の預言者はもっと辛辣な直接的な幻視をするようだが、アモスの場合は夏の果物等ポップなものを視ているところが面白い。しかしこの真意は…やがて投げ捨てられるという暗いものである。

『8:11主なる神は言われる、
「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、
それはパンのききんではない、
水にかわくのでもない、
主の言葉を聞くことのききんである』

ここは思わずグッとくるところ…とは言え、私も全然別の宗教宗派の言う所の『主の言葉』を怒涛のように浴びせられたので果たして飢えているのか微妙な所。

報道、メディアについては本当に真実に飢えている、真実への飢饉が起こっているとは思うけれども。

聖書を読んでいて言うのもなんだけど、主の言葉というものは自分の内部から湧き出てくるものだ。そしてそれは必ずしも言語という形式をとらない。詰まるところ主の言葉は自分で創造し、自分で実行するところの真意である。

これだと思ったことについて単に自分自身で実行してゆくことのほかに主の言葉は無いのではないか?と感じられる。

私にとっての主の言葉は…人間と自然との調和…かもしれない。何かを実行するときに、それがただ単に自分の万能感止まりに『なり下がって』いないか考えている。具体的に言うと朗読も何かのためになった方がいいし、それは人の為とかではなく、究極的には自然を含めた調和のために作用すべきであると感じている。

でも、絵や朗読という芸術分野ではそんな所まで行けそうもないので、現実的に手っ取り早く調和できるものとしての花壇やゴミ拾いをしているというわけです。

調和への欲求、没個人(あるいは純粋なエネルギー分散)への欲求…この概念に名称がついていないのがもどかしい。ゴミ拾いをしていると環境保護派みたく思われるけどそういうわけじゃないんだよなあ…。