これで十二小預言書を読み終えた。
さて、ちょっと全体的な話になるが…聖書を読み難いもの、また【言葉としてそのままに読むとまるで意味が通じない】状態にしている要因としては…
旧約聖書の場合、レビ族(祭司をやっている人々)とか、普通にユダヤの氏族について語られている場合があるので、それを他の民族の人が読んだ場合に違和感を禁じ得ない。
無論当時の預言者たちは当然、言葉通りにレビ族ならレビ族、ユダの家系ならユダ、エルサレムという王国概念(しょっちゅう他国から侵略を受けていたため当時から、日本で例えるならば『戦艦ヤマト』的な概念を含んでいたと思われる、ヤマトという国は最早無いし、それが勝つ!というストーリーを国民たちが夢想するに過ぎない)を指す。
聖書学の上では言葉通り受け取った方がいいという見方もあるだろう。伝統を重んじる宗派の場合もそうかもしれない。旧約聖書で神が語られた言葉をユダヤの人たちは実直に聞いた…が故に、キリストが誕生し、そのキリストは神の概念を全世界の人に広めた…この拡張してゆくピラミッド型が美しいのは否定しない。だからこそ旧約聖書に書かれた氏族名などは敢えてそのまま受け止めるというのも一つの聖書の読み方である。
しかし私は言いたい…現実を生きていて、果たして『言葉通り』という事がどれくらいあるだろうか?
『まあ素敵』という言葉にも、状況によって素直な誉め言葉にもなるし強烈な嫌味にもなる。
自分たち自身も言葉通りに生きるほど整合性が取れ居ているわけではない。
お言葉通りになる…という現象は、実のところ神的存在にしか不可能なのではないかと思われる。(とは言え神という存在が人間やその他空間を含めた存在と分離しているとも言い難い。ので、概念上神を一点に集約して喩えているのだが…ほら、こんな風に人間が言葉通りにすることは不可能なのだ。)
また離婚についての記述も悩む。どうも視点が『(権力のある)男から見た離婚の図』でしかないんだよなあ。確かにそういう人間が簡単に妻子を捨てて、捨てられた人たちが厳しい境遇に陥るのを目にしたら、私とて『離婚はいけない』と言うだろう。
また旧約聖書をさらに遡るとレビ記なんかはもう六法全書状態で、勿論やもめを保護する記述なんかもあったように思う。女子供の人権、という概念が確立しており、ユダヤは当時としてはかなり進んだ文化圏だったのがわかる。
しかしながらこれを今読んでいるのは…必ずしも当時のユダヤ人ではないのだ。いろんな歴史的話や民話、そういったものをどう、種々の状況に居る人たちにその根幹を伝えるのかが、これからの聖書の読み方として重要になってくるのではないか?と何の宗派にも属さない私は【全く個人的に】そう思っている。
そういうわけで権力ある男が一方的に妻子を捨てることに関しての記述は、必ずしも聖書の読み手が権力のある男に限定されないことから鑑みて、【友への裏切り】というストーリーに置き換えようかと思う。
「子供からしたら両親が揃っていることが絶対善なんです!!!」という、両親教概念を強く信奉している方もおられるが…
はっきり言って【聖書自体はそのことに関して特に何の記述もない】のだ。
これはよくよく読めばわかること。聖書そのものは現実的に子供自身の幸福を守ることを第一条件にはしていない。というか自らを子と称するキリストに至っては、特段年齢で人を見る事すらしていないように思われる。
十二小預言書については完全に読みやすいものから直感的に読んでいっただけなので、順番などはバラバラで、そこはちょっと申し訳なく思っている。