旧約聖書朗読【哀歌】荒野のだちょうのように無慈悲になった…

4:3山犬さえも乳ぶさをたれて、その子に乳を飲ませる。
ところが、わが民の娘は、
荒野のだちょうのように無慈悲になった。』

等と書いてあるがダチョウの雌は案外普通に卵を温めるらしい。しかし他者の卵も一緒に温めたり、また自分の卵も他の雌に温めさせたりして独特の帝国を築いている様子。

今回は哀歌が『直接自分に(あるいは自分たちの民)』語り掛けてくる作用が働くように、地名をほとんど省略し、家名の部分は全ての人々と置き換えた。シオンの娘とか、結構素敵な響きではあったんだけども。

家名、地名をほとんど略し、神は何を語り掛けているのかにのみ意識の焦点を絞る…この感覚で聖書を読むと、自分自身に語り掛けてきている!!ような気分を味わえる。お得だなあ。この種の改変を、立場のある人がやってしまうと色々大変かもしれないが、全く個人的に『全人類に語り掛けている聖書』を朗読する分には天罰も当たるまい。

というか、聖書というものがヘブライ語から訳された時点で哀歌の持つ『いろはにほへと』的な韻は失われているわけで、その他にも諸々の『ヘブライ語でなきゃ意味が通じない』部分はあるのだと思う。だから聖書マニアが『歴史的に描かれた部分を改ざんするのは許せない』という旨の事を言うのをネット等で極まれに目にしてしまうたびに、「…訳された聖典に石を投げていいのはヘブライ語原典を忠実に理解して読んでいる者のみである」と反射的に思ってしまうんだよなあ。

哀歌三章には、ヨブ記的な部分と、ヨナ書的な部分、そしてキリストを彷彿させる部分がある。

それだけでもこの書物に芸術的価値があるのがわかる。なんともお得な書物だ。