旧約聖書朗読【意訳・ヨブ記/前編】1~20章、私なりのヨブ記解釈その1

ヨブ記に於いての悪魔の存在について自分なりに思う所を書いておこう。

悪魔=人間社会的な悪ではなく、悪魔とはおそらく…生命の限界を試させる一種の摂理なのだと私には感じられる。ヨブ記はそれをキャラクターに落とし込んでいるので、まるで神様(というキャラ)が悪魔を使ってヨブを不幸にしているようにすら思えるのだが、そういうわかりやすい話ではない気がする。

限界、というと普通『ひどいこと』『恐ろしいこと』を思い浮かべるが実は限界には喜びの限界もある。人間は本当は喜びの方に耐え得ない気がする。

現に私は何か『心底歓喜すること』を恐れている。自分をコントロールできなくなることが恐ろしいのだ。例えば…清廉潔白な気持ちで喜びの涙を流しながらすべての存在を愛している事を実感している、ような状態が毎日毎日四六時中続いたら、それはもう喜びが苦しい、喜びから抜け出たい、少し歓喜の感覚から距離を置きたいと思うようになるだろう。

現実的な話に喩えると、私は花壇を作っているのだが、道行く人の多くが親切に声をかけてくれるときほど何故か気恥ずかしくなって全てから距離を置きたくなる。これこそ歓喜からの逃走である。

恥ずかしいという気持ちがブレーキとなり、自分を制御状態に戻す。これと同様に種々の悩みもまた、自分を制御状態に戻す。コンプレックスや悩みというものは喜びに対面することを避ける勇気の無さの表れだ。

さて、ヨブには信じがたいほどの不幸が襲ってきた…ヨブはおそらく全身が病に毒されたときには声も出なかっただろうと察せられる。真っ只中に居る人間には言葉は遠くにある。それは恐怖でも喜びでも同様だ。

しばらくして正気に返る、つまり少し制御を働かせるために嘆きはじめると、今の状況が見えてくる。ヨブが延々嘆くのは、自身の対面している【限界への摂理】に尻尾を巻いて逃げているからだ、とも言える。いつまでも口だけで何もやらない奴みたいな感じだ。(ヨブの不幸は確かに凄まじいのだが、心的状況だけを取ると、摂理から逃げている心理状態と言える。)

その様が腹立たしいのでつい、外部の人間は机上の空論を展開してしまう。そして人間心理をわかってる系の若者は「逃げるな、もっと素直になれ」と【限界への摂理】に対面するよう促す…鬼コーチみたいなものだ。

あまりにも凄まじい歓喜や恐怖の後に(あくまで個人的な範疇で)、唐突にすべてがハッキリしてきて清々しい時を体験した方は大勢いると思う、というか人間のほとんどが歓喜と不幸の向こうに広大な空間を見る、神との対面をひそかに果たす。

ヨブにとって嘆きというものがいつしか、限界の向こう側を見る行為に代わり、そしてついには神と対面し、答えを得られるという【神的体験】となる。

私はヨブ記が好きなので、かなり勝手な持論を展開しているのだが…読む人によって異なる展開を見せるであろうこの書物、なかなか古さを感じさせないおすすめ図書?である。

※ちなみに、ヨブが「全身が痒くて陶器の破片で身を掻いて灰の中に坐した」というくだり、私自身小児アトピー体験者だったのですごくよくわかる。もう痒すぎて、包丁…まではいかずとも、普通だったら日常を安らかに彩るはずの陶器類も、破片にして体を掻く道具になり下がってしまうようなあの絶望感、そして痒みが引くと、患部をどうにかしたいのだが、患部が広すぎていっそ炭や灰を塗りたくったらどうだろうかとよく夢想していた。そして大抵の場合、このように苦痛の発作に見舞われた後というのは周囲の人も(こちらを見ていたり見守っていて)感情的にも引き摺られ、疲れてうんざりしているので、ヨブの妻がつい、「なんでアンタまだ生きてるの?」という一見酷い言葉を言ってしまうのも、『身近であるからこそ強烈にイライラしている』のは当たり前であり、実によくわかる。