旧約聖書朗読【ダニエル書】後編

普段社会上層部でバリバリと働いているスーパーエリートが、休日にはかなりスピリチュアル的な事象にハマっており最早別人の様相を呈している…そんな雰囲気を醸し出す預言者ダニエルという男の物語。

1章から6章までの宮廷勤めから一変し、後編の7章から突然、天使の幻ばかりを見始め、それを一人称視点にて独白してゆく形式が終盤まで続く。一体どうしたんだダニエル…と読んでいる人は半ば置き去りにされるが、どうやらこれは7章から継ぎ足された書物のようだ。

あと、山羊の角(つの)の幻というものが8章から始まるが、これは別に悪魔的なものを示しているわけではなかろう。雄山羊は雄山羊である。そんな気持ちでサムネイルに使用した。

悪魔=雄山羊、みたいな図柄は11世紀や12世紀から始まったらしく、中世の異端審問にて各地に浸透したようだ。旧約聖書を読んでいると悪魔という言葉はあれど、悪魔という存在に対して過度に忌避する風潮は無かった様子が感じられる。

旧約聖書時代、つまり古代ヘブライ人たちの恐れたものは悪という概念ではなく『穢れ』である、と私には思えてならない。ヨブ記には悪魔が登場するが、どこかコミカルである。エゼキエル書では神殿内部に勤める人々はその聖なるものを『外部の(穢れた)民衆にうつしてはならない』という記述もある。おいおい、むしろうつしてやれよ聖なるものを…ありがたいものをみんなに振りまいてやれよ、と突っ込みたくなるが、ほとんど理屈を超えた段階で、融合や接触を強く拒む気質が古代ヘブライ人にはあったようだ。

悪魔のイメージが穢れに代わって新約聖書では取り上げられているようにも思われるが…実はよくよく読んでみると悪魔はやはり古代ヘブライ人の考えた悪魔に過ぎない、つまり害悪をももたらす絶対神よりもだいぶ格下の(時に忘れてしまえるような)存在として語っているようにも思われる。悪魔のイメージだけが独り歩きしたのだろう。

なんで悪魔についてくどくど書いたのかというとそれもこれも山羊可愛さゆえである。動物に罪は無い。雄山羊を恐れるなかれ。…確かに、猛り狂う雄山羊は意外と狂暴そうではあるが。