
2019年に、一念発起して始めた洋裁、そして同年に見事に挫折し、その後丸二年も「ミシンを見るのも嫌」というほどに苦手になってしまったこの趣味をもう一度始めることにした。
全く個人的な話だが、大体その頃から股関節が痛くなり、杖で歩行するようになったために、出勤以外の選択肢で何か手仕事を身につけておきたかったのだが…こうした『恐れから来る個人的利益』が目的の事柄は全然うまくゆかないもので見事に頓挫した。
…いきなりだが、美の基準を他人に委ねる事は危ないんじゃないか?と昔から考えている。
しかしながら服というのは社会性を表す指標でもあるので、既製品を身に着けるとある程度の社会性が(少なくとも金額分は)保障されるという利点もある。ただこの利点…中長期的に考えると本当に『私個人』の利益になっているのだろうか?と自問してみたところ、全く相反するという結論が出た。

自分の美を体現するために、私は自分の服をつくらなければならない…あるいは私のような偏屈者はもっと偏屈者らしい恰好をすべきと悟ったとも言える。
…こんな風に大義名分だけは私個人の中で比較的はっきりしているくせに、いざ作るとなるとかなり難しい。
そして、ミシンから離れていた丸2年に何をしていたのかというと、朗読である。
この2年のうちに『なんの利益にもならないただの唐突に思いついた趣味』こそが朗読であり、おそらくこれからの毎日も…たぶん本当に寿命で死ぬまで30分間の朗読発声練習を続けて行く所存である。

この2年でわかったことは、端的に言うと『自己満足こそ目的以上の結果(作品)を得るのに一番最適な思想』ということだ。
朗読に関しては私としては結構満足している、勿論現在進行形でやり続けているし、これからも続けて行く。

…布が高いので練習用のシーチング布を使って型紙通りに作る。
それを身に纏い、この時に長さやサイズの違和感をはっきりさせ、それから自分に合った適切なサイズで(高い)本番の布を使い、着れる服を作る。
これもあと2年くらいは朗読同様、根性で続けてゆかねばなるまい、あと2年くらいは『着たい服』は作れないと初めから断念しておこう。
毎日の朗読稽古や意訳作業と並行し、週に二着くらい作っていけば、数年経てば…社会的には特段どうにもならないが、個人的には納得した人生後半が歩めそうだ。
そういう意味では、経帷子を作っているとも言える。