旧約聖書朗読/【第一イザヤ書】1~39章

第一イザヤについては預言者イザヤ本人が記したとされているので一人称視点では『わたしイザヤは…』という語り口にしている。

歴史については多分聖書に親しんできた視聴者様のほうがよほど詳しいだろう。

さて、イザヤは王様に対しても対等に助言しているところからしても結構な地位にいたと思われる。

面白いのは、かの仏陀と同じように、自分の息子に『負の印象を抱かせる名前』を付けている所だ…とはいっても『凄まじい略奪』をさらに意訳するのであれば、転じて『我が国の宝』とも言える。仏陀の息子の名前も『(現世に引き留める作用をもたらす)障害』という名前だが、転じて『目覚めた人である自分にとってさえ、凄まじい魅力を放つ我が子』とも言える。

イザヤも仏陀も素直に愛を表現しにくい気質のようだ。息子への名前だけでなく、物質を厭い裸で生活したりと共通点が見られる。照れ屋なわりに、世間的な恥ずかしさは一切持ち合わせていないという難解な人物像である。

また初見では、当方、恥ずかしながら全くヘブライ歴史を知らなかった故に、36章で登場するラブシャケ氏が何なのか、彼が何を言いたいのかすら意味不明であった。

なので36章は『(私にとって)かなりわかりやすく』ラブシャケ(敵の護衛隊長)を悪役とし、民衆との緊張感のあるやり取りに関しても加筆させてもらった。

とは言え国という単位の集団はどうしても防衛や侵略を繰り返すので、個人的には現実としてのヘブライ王国が善だとも感じていない。国に関して善悪を当てはめるのは的外れだという見解である。

ここでいつも思うのは、私が聖書に惹かれるのは…それが心の中の国のように感じられることだ。当たり前だが個人というものすら、根本的には善人も悪人も居ない。心の中の国、心の中の王国…こう考えると、聖書物語は案外誰にでも当てはまるのではないか?

第二イザヤでは解放が語られ、第三イザヤでは万人への救いが語られる…それは預言者イザヤの時代から100年、150年と時を経ているが、イザヤの言いたかったであろう思想を見事に紡いだと言える。

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