旧約聖書朗読【第二イザヤ書】40~55章

第二イザヤが書かれた年代は預言者イザヤが生きていた時代から大体100年後、第三イザヤは第二イザヤの30~40年後(感覚的には50年後でもいいかなと感じる)。

イザヤ書の凄いところは預言者イザヤ派と思しき人々が、独自の預言をイザヤ概念に上乗せする形で発展させてゆき、はじめはヘブライ人だけに対してだった預言がいつの間にかヘブライ人以外の万人、すべての人へのメッセージになっている事である。

第二イザヤはその中間であり、メシアの預言があるにせよ、囚われていたヘブライ人に宛てた解放のお告げである。

ここでちょっと感じるのは…イザヤ派と思しき人たちは、おそらくもっと他にも預言を残したのではないか?ということ。第一イザヤは預言者本人が行ったものであるのでいわゆる旧約の伝統の中に生きているが…第三イザヤの言わんとするところを意訳していると『第三イザヤの反対派(アンチ第三イザヤ)』、つまり救いはヘブライ人のみに来る!というイザヤ派預言者も当然居ただろうな?と感じられる。

勿論、万人に宛てたメッセージ性のある聖典を作り出し、保持しているということそのものに…政治的優位性があるのを否めない一面もある。(もし旧約聖典全てが、完全に一貫してヘブライ人の救いだけを謳っていたとしたら、ヘブライ人という集団は…数多の小規模民族同様、地上から抹殺されていた気がする。)

さて、私は聖書をそのまま読むということに関しては結構疑問を抱いているほうだ。神学的思惟ではなくて、語学として疑問を抱いている。聖書にはカタカナ外来語…家系であったり行為であったり人名であったり…これらに付け加え、『わたし』『彼』といった対象者不明の文言が多すぎて、第一イザヤのラブシャケのようにいわゆる『悪人』の台詞なのか、はたまた神のありがたい台詞なのか?あるいは預言者の苦しみの独白なのか?読んでいてさっぱりわからなくなるのである。

聖書ってこの点で、日本語(あるいは原典であるヘブライ語以外の諸言語)としてほとんど破綻している書物だと感じるのだが…私の理解力が至らないだけだろうか?

それで語り掛けの①対象者をはっきりさせる②発言者をはっきりさせる③情景が見えるようにカタカナ外来語を邦語訳するということを(自分のために)心がけけている。

【ヤコブ/主のみ手を掴む者】という意訳について

しかし今回挫折しかかったのがヤコブの家系に関する名称だ。

かかとを掴む者という直訳にしようかとも思ったが、まじめな台詞の時に唐突にかかとかかとと連呼されるとなんとなく滑稽な感じが否めない。じゃあ掴む者にするか?とも迷ったが…何を?という疑問も湧く。一族としてはヘブライ人の家系の開祖でもあるので栄光を掴む者とすべきかとも思ったが…本来『かかと』とすべきところを『栄光』にしてしまうと、むしろエサウの家系=栄光、ということになって意味深長に捉えられてしまうおそれもある(社会には何の影響もないが)。

よって、神から愛されたのだから『主のみ手を掴む者』にしようと決めた。

だがこれも…神自身が発言するときには『わが手を掴む者』とすべきか?と迷った。しかし神がヤコブの家系について毎回『我が手を…』と言うとなると、かなり神と個人的に近しい関係という感じに…。つまり後々出てくるイエスキリストよりもよほど神に近い雰囲気になってしまう。※この辺の解釈は私個人としてはどちらが神という宇宙の一点に近いか等はどっちでもいいのだが…朗読するうえではそうもいかない。

ということで『主のみ手を掴む者』で基本的に統一することにした。

一応【自尊敬語】・・帝など、最高度の身分の人が自分で自分に対して敬語を用いることがある。とされているので、神自身の台詞の中で自らの手を【み手】と表しても、日本語的には許される…らしい。

たまに人に聞かれるのが「なんで聖書を読むの?」という事だ。おそらく答えは「わからないから」だろう。…わからないものを理解した(ように感じる)瞬間が面白いから読んでいる。特に新約については、イエスキリストは多次元世界…つまり仏陀の言う『三千世界』を体感していた人物なのではないか?時間というものを超えていたのでは?と感じさせられる。この点に於いて、イエスキリストだけは聖書を各々が独自解釈しても「それもひとつの世界の在り方だ」と許してくれるような気がしている。