旧約聖書朗読【詩篇Ⅱ】第2巻

聖書を何故意訳するのか?

①著作権切れだから(1955パブリックドメイン)

②聖書の書かれたときの人たちはどんな感覚で聖書を聴いていたのか知りたいから外来語を邦語訳した(ヘブライ民族はどんな感覚で聖書を聴いていたのか知りたいから。外来語なんて使うわけがない)

③神は観測上の状態でありそれを固定化絶対化したくないと考えるので、単一民族だけの賛歌でなく、普遍的に響くようにしたく、また個人的に聖典の類こそ、個人解釈が必要だと感じているから。

神というのはこの世が在るということへの敬称であり、自分というものも在ると認識している瞬間に神との対面を果たすと思っているので、裏を返せば…認識したいという希望的観測姿勢が必要だとも感じている。

意訳については勿論、聖書を汚すなという指摘もあるだろうが…神すなわちこの世の実在と捉えるならば、実在に関しての認識現象なので、私が著作権切れの聖書をいかに読もうが意訳しようが、聖書及び神を汚すという事など全く実現不可能なのだ。

アイドルや美術品、芸術品といった人物やモノ、つまり『偶像』の場合は『この世に一点』なので、汚されたとか物理的に破壊されるといった現象がつきものだが…。

神が観測や認識現象だとわかるならば、聖書もまた無限に読むことが可能なのであり、全く同時に神が無限なのだとわかる。

私個人としては神及びこの世の実在というものに関しての認識を固定化、絶対化させてはならないと感じている。

第一、絶対化したら観測をする意味自体が無くなってしまう。

信仰というと十把一絡げにされがちだが、希望的観測姿勢(神を待ち望む)と、神への絶対性って実はかなり性質の異なるモノだよなあ…と個人的には思っている。

※詩篇第二巻については、今回はヘリコプター避けにマイクにローカット処理を施したので音が小さくなってしまいました。次巻からまた元の音量に戻ります。